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2004.06.27付紙面より
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| 写真=都内のレストランで撮影しようとしたら、シンディがポツリ。「後ろの男の人、とってもクール(かっこいい)でしょ」。どうやら、店内に飾られた印象画の中の男性に恋してしまったらしい。そこで“ツーショット”とあいなった。今日の相手はかなりの強敵。彼女が気に入る照明に30分は要した。こちらがてこずっていると「ちょっと待ってね」と、カバンをゴソゴソ。「なぬー! 」。なんと、自分用のレフ板(照明用反射板)を持っていたのだ。恐れ入った…。「姫」に気に入ってもらえる写真が撮れてうれしかった。ちょっと疲れたけど
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| (撮影と文・中島郁夫) |
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おばあちゃんになってもハジけそう
鮮烈なデビューからちょうど20年が経過。51歳になった。米国のポップス界を代表する歌手シンディ・ローパー。今でも世界中を駆け回り、エネルギッシュなステージを見せてくれる。思い通りに音楽界を渡り歩いているようにみえるが、幼いころは異端児として扱われた。それでも必死に、歌という自分の「居場所」を見つけた。だから歌い続けるのだという。
カモーン
♪6月17日、東京・渋谷公会堂。8年ぶりの来日公演。開始予定時刻から10分ほど過ぎて、扉を開いた。歌声は響いていたが、シンディはステージにいなかった。スポットライトを追うと、中央の客席に乗り、観客と一緒になって拳を振り上げて熱唱していた。「ヘイ! カモーン、エブリバディー! 」。まだ2曲目。場内は、クライマックスのような盛り上がりを見せていた。♪
インタビューは、その6時間前、滞在先のホテルで行った。取材場所は、シンディが決めた。前日にスタッフを連れてホテル内を歩き回った。写真撮影の場所は、気に入った壁画の前を指定した。普段もプロモーション会議などにも必ず同席する。
「とても雰囲気のある絵なの。どうしてもここがいいと思ったの。取材を受ける時でも、1人ではなく、コミュニケーションを取りながら面白いことをしたいのよ。場所をみんなで探して、みんなで考える。普通のことをやりたくないのよ。それに自分のことは自分でちゃんとやらなきゃ」。
フロアを動き回り、スタッフにもこまめに声を掛ける。こちらも一緒に何かをつくっているという気にさせられた。
キュート
♪8年ぶりのコンサートも中盤にさしかかった。ヒット曲を次々に披露する中でふと、静かに語りかけた。「初めての日本公演で『トゥルー・カラーズ』を歌った時のことは今でも忘れないわ」。「トゥルー・カラーズ」は「自分本来の姿を表に出すことを怖がっていちゃだめ」「私には見える、あなたの本当の素晴らしさがにじみ出している」と、憶病になった心をそっと励ます歌。この日も観客と合唱した。♪
9年前、同じ渋谷公会堂で「トゥルー・カラーズ」を歌う前、客席にこう話した。「実は私、子供のころ『変な声』という理由でいじめられたの。だからできるだけ声を出さないように、いじめられないようにしていた。だけどそれがパワーになって、吹っ切るために歌い、シンガーになったの。いつか今のあなたが認められる時が来るから、頑張ってね」。コンサート前、日本のいじめ問題の深刻化を聞いた。励ましのメッセージだった。
5歳の時、両親が離婚した。50年代当時、離婚は今ほど一般的でなかった。周囲から白い目で見られる生活が始まった。自然に反抗的になっていった。
「問題児だったわ。ほかの人と同じペース、同じ歩幅で歩かなかったから、異端児扱い。修道院スタイルの学校に通っていたけど、子供たちは早く起きて5時半には教会でお祈りをしなければいけない。行けなかった時、神父から『母のように地獄に落ちるぞ! 』って言われたの。離婚したから地獄に落ちるなんて理解できなかった」。
12歳から髪を派手な色で染め、メーキャップし、奇抜なファッションで街を歩いた。ノーブラでTシャツの日もあった。授業をさぼり、絵を描いたり、歌ってすごす日もあった。
「自分のどこが悪いのか、なぜみんなと違うのか、さっぱり分からなかった。人と違ったことがしたかったのかな」。
17歳で家出した。ニューヨークを飛び出し、旅をした。ウエートレス、絵のモデル、競馬調教師の助手、空手教室の呼び込み、テント生活…。栄養失調でニューヨークに戻った。バーで活動するバンドのボーカルを務めた。レコード会社と契約したこともあるが、商業的な成功はしなかった。10年間、下積み生活が続いた。それでも歌い続けた。
「音楽だけが、信じられた。偉大な治療薬だった。気持ちが軽くなったの。歌えばいつもいい気分になれた。それぞれに自分の居場所がある。もしも自分に場所がないと思ったら、声を出さなきゃダメ。私のスポットは歌だった」。
偶然出会った音楽関係者の働きで、再びレコード会社と契約。クシャクシャの金髪、ド派手なメーキャップ、過激な衣装…型破りな外見と、相反するようなキュートな歌声がプロデューサーの目に止まり、アルバムデビュー。さらにデビューシングル「Girls Just Want To Have Fun」は全米ヒットチャート2位を記録した。30歳だった。
「最終的に自分を成功に導くのは、誰かが自分をどう思うかという意見や印象ではなくて、自分を信じられるかが大切。自分を信じてどこまで引っ張っていけるか。エジソン、コロンブス、日本の発明家もきっと、自分を信じたからこそ成功したと思うの」。
ゲンキ?
女性の気持ちを歌い続けた。デビュー曲は「閉じこめられているのはいや」「私たちって不幸な生き物なのね」と歌った。当初は男性が書いた女性の硬い自己主張だったが、シンディは書き直した。
「ムキになっても印象は悪くなるだけ。それまでにない方法で表現できないかなと思ったの。それで、わざと大げさに女性の権利を主張したの。当時はとにかく規制が多かった。法律なんて勉強しちゃいけない、ゴルフをしちゃいけない、このクラブは入っちゃいけない…。自由が欲しかった。何かに縛られているのは嫌でした」。
コルセットのような衣装を着た時期もある。17世紀の女性が受けた仕打ちに対する抗議の意味だった。
「女性が当時、ロックの音楽ビデオに出演していると、服を脱ぐという発想しかなかったと言ってもいい。だから私は、さまざまな肌の色の人たちが同じように楽しみ、みんなが友人だということを表現しました。同じ考えを持っていても、言えない人もいた。私はそれを言わずにはいられない人間だったのです」。
91年に映画で共演した俳優デビッド・ソーントンと結婚。97年に第1子ワレス君を出産した。
「(母親になると)足がしっかりと大地に根付いているような感じがしている。いつの間にか、エネルギッシュになっていました。子育てと仕事でリラックスする時間はほとんどありませんが、若者がダラーッとしてると『あなた何しているの、もっと頑張らなきゃ』と声を掛けてしまう」。
02年北米ツアーでは半年間で100万人を動員。昨年10月から世界ツアーを開始し8年ぶりに来日した。
「何で歌い続けるのとよく聞かれますが『ではなぜあなたは毎朝起きるのですか』と聞き返します。歌うことが私の居場所と分かってから、歌うことはそれぐらい自然なことなの」。
来日中に51歳の誕生日を迎えた。
「80歳になっても歌い続けますよ。声が出にくくなったら、曲の調子を変えます(笑い)。こういう年齢になったら、こういう歌を歌うべき、つくるべきなんて言われても気にしない。私の幸せは私自身で動かしてつくり上げるの」。
♪コンサートも終盤に差し掛かった。右へ左へ駆け回る。客席にも何度も降りた。「ゲンキ? 」と何度も聞いた。スピーカーの上にも、ピアノの上にも飛び乗った。最後はデビュー曲。誰が何と言っても歌い続けるのよ−。空間が狭く感じられるほどのはじけっぷりが、その生き方を物語り、それは確かにファンにも伝染していた。♪
控室にイカの薫製、のり、枝豆
約2週間の来日中シンディは、たびたび庶民的な一面をみせました。日本のスタッフに対するシンディ側のリクエストは「公演会場の控室にイカの薫製、味付けのり、枝豆を用意して」。お気に入りだそうです。名古屋公演前日の19日には、中日−横浜戦をナゴヤドームで観戦。関係者が個室のVIP席を用意しましたが「野球はスタンドで、ビールを飲みながら楽しむものでしょ」と一般席に座りました。地元テレビ局から中日のはっぴとメガホンを贈られるとうれしそうに着用。翌日のステージでもはっぴ姿を披露しました。
◆親日家シンディ◆ これまで来日ツアーは8回。初来日は84年。90年にNHK紅白歌合戦に出場。96年には阪神大震災復興を祈願した神戸生田神社節分祭に参加した。
◆シンディ・ローパー(Cyndi Lauper) 1953年6月22日、ニューヨーク生まれ。78年にブルー・エンジェルを結成するが、商業的に成功せず解散。83年にレコード会社とソロ契約。同年デビューアルバム「シーズ・ソー・アンユージュアル」で本格デビューし、全世界で800万枚の大ヒット。「タイム・アフター・タイム」「トゥルー・カラーズ」「チェンジ・オブ・ハート」などヒットを連発。85年グラミー賞最優秀新人賞受賞。01年に制作した日本未発売のアルバム「シャイン」が今年4月から発売中。
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