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2005.01.16付紙面より
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写真=大学選手権の試合後の撮影だった。試合後にもかかわらず、疲れたそぶりも見せず、記者の質問を熟考して、自分の言葉で答える姿が印象的だった。でも、まだ19歳。「前途洋々ってこういうことを言うんだなあ」と思いつつ、シャッターを切った |
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(撮影・蔦林史峰) |
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もっとデカく
英会話、ピアノ演奏、子育てもしてみたい。もちろん日本代表入り、海外移籍も夢見ている。昨年、日本サッカー史上最年少で五輪に出場した平山相太(19=筑波大)。これまでほとんどインタビューに応じる機会がなかったが、胸には熱い思いを秘めている。現在、過去、未来…。国民の期待を背負う逸材が、等身大の自分について語り始めた。
仕事決めかね
平山は今、部屋にテレビを置いていない。自分の弱さを知っているからだ。「あると、夜中にずっと見てしまいそうなんです」。アスリートとしての一線を保ちながら、学生生活を送っている。
長崎・国見高から昨年4月に入学して以来、蹴球部の同期2人と共同生活。みそ汁をだしからとってつくることもあれば、外食に出掛けることもある。キャンパスには、柔道や陸上などサッカー以外の種目で世界のトップとして活躍する同級生がいる。そんな選手を見たり、知り合ったりすることが刺激になるという。
−大学進学の理由は
「プロでやる自信がなかったからです」。
−でも、高校選手権で2年連続得点王を取ったほどの実力がある
「練習や試合で、サッカーがたまに適当になってしまうんです。それでプロにいっても、毎日を120%の力で練習できないんじゃないかと思いました」。
−メンタルが弱い
「試合にかける気持ちが強いと声も自然に出て、プレーの1つ1つが集中できて、普段より力が出せる。でも、気持ちがないときは『こなす』って感じになるんですね」。
−分かっていて直せない
「なんでですかね。そういうのが分かっているので、サッカーを仕事にするっていうのは、ちょっと決めかねたんですね。プロに行ったら変われるのかもしれないですけど」。
−メンタルを強くするためにはどうすればいいと
「いい選手の悪いプレーを見ることですね。ああ、この人たちでもミスをするんだって思って(笑)」。
−プロの方が、サッカーをやる環境はいい
「そうかもしれません。でも大学では、サッカーだけじゃなく、別のこともできたらと思っています」。
フフフ理事長
−進学してよかった
「まだ分かんないですけど、良かったって言えるようにしたいです」。
微妙に気持ちは揺れているが、軸足は大学に置いている。
−授業は
「結構面白い授業はありますよ。教育心理学とか、スポーツ哲学とか」。
−ついていけてる
「フフフ、要領よく」。
−大学にいる間にやっておきたいことは
「コーチングの勉強とか」。
−いずれは指導者に?
「はい。協会に入りたいです。理事長とか。フフフ」。
04年。この年代では日本で最も忙しい男だった。1月の高校選手権で、母校を日本一に導いた。3年間で史上最多の通算17得点。入学時は動きが遅く、小嶺忠敏総監督から「キリンのようだ」と言われた男は、メディアから「怪物」と呼ばれるようになった。ジーコ監督率いる日本代表に入れるべきとの声も挙がった。
2月には年齢的に1つ上のカテゴリー、U−23(23歳以下)日本代表に選ばれ、五輪予選を戦った。最年少の19歳2カ月で出場した8月のアテネ五輪を終えると、9月にはU−19代表に。大学リーグにも出場した。日の丸を背負って遠征した国は8カ国、公式戦と練習試合を合わせると50試合以上もピッチに立った。丸1年間、週に1度以上は試合をしていた計算になる。
周囲はいろんなことを言う。「大学じゃ伸びない」「プロで鍛えるべきだ」。本人の耳にも入っている。
−どう受け止めている
「んー、そう言う人たちはみんな大学を出ているじゃないですか。オレのことを思ってくれているのかもしれないけど、自分にはそういう焦りはないっす」。
決めたら頑固
日ごろから、大きなことは絶対に言わない。記者泣かせでもある。「本当はしゃべるんですよ。でも母ちゃんや兄ちゃんがずっとしゃべっているんで、オレが話す必要がなかった」といい、家でも口数は少なかった。その反動のように、ピッチに立つと、雄弁なプレーを見せてきた。
サッカーを始めた小学生のころから、同世代で実力は飛び抜けていた。3年の時、6年のチームでプレーしたこともある。5年の時、コーナーキックはキッカーと合わせることで9割は得点できた。点を取りすぎて、上級生から嫌われた。
「練習どこでやるんですかって聞いたら、もう来なくていいよって。びっくりしましたね」。
FWをやるなとも言われ、家に泣いて帰った。「サッカーをやめる」と言いだし、2時間も涙が止まらなかった。そんな時、理解ある主将に助けてもらい、チームに戻った。そのころから今まで、常に年上の選手に混じる「飛び級」が当たり前。自然といじられキャラになってしまうのは、こんな歩みが影響しているのかもしれない。
県外の国見高への進学は自分で決めた。中3の1月、15歳で北九州市の家を出て、転校。小嶺総監督宅で下宿生活を始めた。
「スイッチが完全に切り替わった。サッカー漬けになりたかったんです」。
−でも大学はサッカー漬けじゃない。心境の変化?
「じゃないですかね。こうと決めたら頑固なんですよ」。
もちろん、大学進学も決めたのは自分。決断した時、親にはこう話している。
「大学サッカーは、高校のように華やかじゃない。でも、3年の終わりくらいに目立って、4年たったらプロになる。3年間は沈むよ。でも、しっかり蓄えて別人になるから」。
アドリアーノ
最近は、同年代のチームに戻ると、リーダーとして先頭に立つ姿勢を見せ始めた。同時に野望も芽生えてきた。
−海外移籍の夢は
「今でも行けたら行きたいですけどね。でも、そのためにしっかり練習をしたい。大学は出たいです」。
−日本代表は
「やっぱ日本人なんで…。想像したりしますよ(テレビを見ながら)自分を入れてみて。ちゃんとやれるかなって。中田英のパスについていけるかなあって。どんなパスで、どんだけ速いのか分かんないですからね」。
頭の中をここまで明かしたのは、初めてだ。「中田さん」や「ヒデさん」でなく、まだ「ナカタヒデ」。プロでやる自信がないと言いつつも、実はしっかり上を目指してもいる。これまで、好きな選手にはロナウドやジダンを挙げていたが、今のあこがれは、ブラジル代表のストライカー、アドリアーノ(22)。イタリア・セリエAで得点ランクトップに立つ大ブレーク中の選手だ。
「アドリアーノはもう、やばいです。目標になりました。人間じゃないところが、格好いいです。すごいっすね、半端ないです」。
この話題になると、声のトーンが突然変わった。携帯メールのアドレスは、打倒アドリアーノを意味する文字が並ぶ。大学に所属しながらも、アドリアーノ超えを目指すのだという。
−今年6月で20歳。これからやりたいことは
「ピアノとか英会話とか子育てとか。ピアノは今、マイブームです。いずれグランドピアノを弾きたい。英会話は常識として。遠征でもあまりしゃべれなかったから。子育ては、今すぐ結婚するわけでなく、単に小さい子が好きなんですよ。いろいろ教えたいし」。
今も、平山の出場試合には、Jリーグの複数のスカウトが集まり、熱い視線を送っている。今年中には、特別指定選手として大学に籍を置きながらJリーグに出場する可能性もある。しかし周囲のかしましい声と対照的に、その言葉は落ち着いていた。「自分の人生? ここからだと思います」。
世界を知ってどう生かすかは本人の意識次第
アテネ五輪日本代表を指揮した山本昌邦監督(46) 彼にとって04年は激動の1年だったと思います。すごく成長した1年であり、世界を知った1年でもあった。五輪で世界の怖さを知りました。それを今年どう生かすか。伸びる要素はまだ十分にある。本人の意識の問題でしょうね。大学のチームの中でみんなと一緒の気持ちを持っているようではダメ。高いところに意識を置いて、やってもらいたい。いや、やってもらわないと。意識が低ければ、このままダメになることだってあるんです。自分が責任と自覚を持って、どこまでできるか。難しいかもしれないが、彼ならできると思っています。
◆平山相太(ひらやま・そうた) 1985年(昭和60年)6月6日、北九州市生まれ。田原小2年からサッカーを始める。田原中から長崎・国見中へ転校し、国見高入学。2、3年時に選手権連続得点王。03年ワールドユース、04年アテネ五輪出場。現在、筑波大1年。家族は両親と兄。190センチ、81キロ。
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