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2005.09.04付紙面より
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写真=満面の笑みを浮かべる清水ミチコ |
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(撮影・鹿野芳博) |
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清水ミチコのマネはできない
確固としてはいるが、決してメジャーではない特異なキャラクターとして19年。いつのまにか女性若手芸人が目標の1番手に挙げる存在となった。清水ミチコ(45)。環境から身につけた音楽の素養、ものまねには独特の創作が加わり、似ているだけの他の芸人とは明らかに一線を画している。「おばさんの強み」を自覚したという今、さらなる飛躍を予感させる。
クレーム0
ライブの客席にはお笑い芸人が詰めかけ、ものまねされた当人から時として感謝のメッセージが寄せられる。ピアノと彼女だけというシンプルなステージ、説明抜きの雰囲気で笑わせる芸には、プロ受けするだけのひねりと深みがある。13年ぶりにリリースした「歌のアルバム」の冒頭は、とっくに引退した山口百恵の“新曲”である。
「カラオケで大好きな百恵ちゃんを歌うんだけど、みんな古いの。百恵ちゃん新曲ないんだなあ、って実感したんですよ。島田紳助さんに『百恵ちゃんの新曲作ろうと思ってるんだ』って話したら爆笑されて。紳助さんが笑うほどいいことなのか、って勇気が出まして」。
清水が勝手にイメージして作詞作曲したその新曲は、子育てを一段落した現在の百恵ちゃんの、妙にリアルな独り言風だ。
彼女が繰り出すものまね芸はいずれも一筋縄ではいかない。桃井かおりが女優論を語るうちに様子がおかしくなって連行されたり、綾戸智絵が「テネシーワルツ」を歌いながら関西弁でわめいたり、森山良子のものまねで“森山ファミリー”のムッシュかまやつと直太朗の作曲法を笑い飛ばしたり…。対象に対する理解が深いからなのだろう。これまで相手からクレームが来たことはない。綾戸からはコンサートのゲストに呼ばれ、森山良子からは、ネタにしていた直太朗の髪形が最近変わってしまったことを逆にわびられた。
よっちゃん
大向こうを狙うのではなく、より繊細でデリケートな笑いの原点は学生時代にある。最初の観客は小中高と一緒だった幼なじみの「よっちゃん」だった。
「なんで私なんかと一緒にいてくれるんだろうってくらいかわいくて勉強もできる子で、その子を笑わせるのが楽しみな日課でした」。
クラス全体を笑わせるのではなく、4人くらいの内輪だけで輝くマイナースター。
「先生のあだ名、似顔絵、4コマ漫画…。バレーボールで“オットセイみたいなボールの受け方”とか。で、一生懸命汗かいて笑わせようとすると引くの。あんまりジタバタすると人は笑わないんだとか、よっちゃんから学びました」。
日曜日には観光客ごっこ。
「出身が観光地の飛騨高山(岐阜)で『おいしそう〜』なんてテンション高い観光客がうらやましいんですよ。2人で当時流行ってたサロペットはいてポシェットして『リンゴだわー』なんて盛り上がるわけ。えらいもんで、見慣れた景色も『ごっこ』をすることによってすごい新鮮で、いい街だななんて思えたり」。
芸風の特色の1つである「違った視点」の原点がかいま見える。
投稿マニアでもあった。タモリのラジオや、70年代後半から80年代前半にかけて一世を風びしたサブカルチャー雑誌「ビックリハウス」にさまざまなペンネームで投稿した。“ハウサー”と呼ばれる常連投稿者には大槻ケンヂや野沢直子もいた。
「映画の『ブリキの太鼓』をパロッて『ブリキのタイヤ』とか、今見ると恐ろしいつまらなさなんですけど、高校の時はキラキラした大切な雑誌だった。くだらないことをまじめにやるおもしろさという意味で、お笑いの学校みたいな雑誌でしたね」。
何でもあり
笑いのセンスに加え、芸を支える要素になっているのが音楽である。バンド活動をしていた父親は、彼女が小学3年のときにジャズ喫茶を始めた。2000枚近いジャズのレコードが身近にあった。
「ジャズ喫茶のポイントはスピーカーにあんのよね。『ご家庭にはないだろ』っていう自慢のJBLのスピーカーで大音量で聴くの。特にベースの低音が響いて最高なのよ。2階がウチの住まいで、夜遅くまで聞こえてきた」。
父親はウッドベースを弾き、弟はサックスを吹いた。清水の自在なピアノ演奏は我流。環境の中で自然に身に付いた。最も衝撃を受けたのは、高校生の時に聴いた矢野顕子だった。
「音楽には難解なジャズと楽しい歌謡曲の2種類があると思っていたんですけど、矢野さんが童謡をジャズっぽくアレンジして歌うのを聴いて『こんなこともやっていいんだ』ってすごい感銘を受けまして。音楽は何でもアリなんだ、って目覚めました」。
ものまねも音から入る。
「言葉としてとらえないで、声を音楽みたいにしてラジオのチューニングみたいに波長を合わせていくの」。
田中真紀子氏の波長の解説を頼むと「田中真紀子でございます」とあのダミ声で笑わせ「頼まれもしないのにやってしまった私ってすごい」とガッツポーズした。
「うまい人はたくさんいる。音楽と投稿は『大切な趣味』にしよう」と決め、短大卒業後はケーキ屋さんや総菜店でバイトをしていた。人当たりがよく働き者で重宝がられたが「クリームとか練りながら『あの人がこんなことしたらおもしろいだろうな』とか、つい考えちゃうんですよ」。
そんな清水を見た店主が知り合いのディレクターを紹介してくれた。当時、テープ審査に受かれば昼のステージを無料で貸してくれた東京・渋谷のライブハウス「ジァンジァン」で初舞台を踏んだ。26歳だった。
「たまたま客席にいらした永六輔さんから『芸はプロだが生き方がアマチュアだ』って指摘されて。以来、本当にお世話になったんです。アマチュアと指摘された主婦感覚はいまだに変わってないんですけど」。
「女タモリ」の異名でも知られる。トランペットなどの音楽を使った笑いや、4カ国語マージャンに代表されるサブカル的な発想、寺山修司の思想まで織り込んだようなものまねなどに「かなり影響を受けた」という。
「実は最近になってNHKの映像で初めて寺山修司さんを見たんですけど『どれだけ似てんだ』と。私も、ものまね対象者の著作物は猛烈に読みます。スポーツ新聞のちっちゃい記事までチェックしますから」。
若手の目標
声まねの一方で、顔まねもこの人の代表芸になってきている。1人でメーク、髪形、衣装をこなし、撮影終了まで約30分という早ワザだ。
「まず似顔絵を思い描いて『存在がかげろうのようになっている』みたいな雰囲気をとらえてメークする。メークに頼るより、ウソでも『私は仲間由紀恵だー』って魔法かけてなり切った方が似ていて、笑えるんですよ」。
顔まねに向いている顔立ちはあるのだろうか。
「この道の先駆者である南伸坊さんが『しょせん人間、目が2つで鼻と口はひとつだ』っておっしゃってましたけど、きっと誰でもできるんですよ。バカバカしいからみんなやらないだけで」。
家の中でものまねの練習に励み、顔マネにいそしむ清水を、夫と高校1年の娘は「おもしろい。天才」とほめてくれる。デビュー19年で今が一番楽しいという。
「昔は自意識過剰であれもこれもシャットアウトしてた時期もあるんですけど、40超えておばちゃんになって『いいじゃないですか、私は私で』って楽になった。昔はおしりを出せる男の芸人さんをうらやましく思ったけど、この年になるとおばちゃんの方が楽しそう。男性は自分の世界を作るばかりで、おじさんご一行を見ると『死にに行くの!?』って雰囲気だもん」。
若手お笑い芸人に「目標にしている人」を聞くと、決まって男性は「高田純次」、女性は「清水ミチコ」と答える。小劇場っぽい雰囲気と、独自の芸風による立ち位置があり、肩の力が抜けてみえるのだろう。
「本当に? あんな無責任な人と並べられてうれしい」。
今後について聞いた。
「いつまでもふざけていたい。怖いのは、高齢のタレントさんがふざけると周りが『笑おうよ』みたいになるあの空気。あれを察知したら、とにかくとっとと辞めようと思います」。
◆清水(しみず)ミチコ
1960年(昭和35年)1月27日、岐阜県高山市生まれ。文教女子短大卒。83年にラジオの構成作家を始め、86年2月に東京・渋谷ジァンジァンで初ライブ。翌87年にフジテレビ「笑っていいとも!」で全国区に。黒柳徹子や幸田シャーミンのものまね、ピアノ漫談で人気を集める。著書に「清水ミチコの顔マネ塾」など。87年にフリーディレクター坂田幸臣氏と結婚。1女がいる。161センチ。血液型B。
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