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2006.01.03付紙面より
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写真= 前略、高倉健さま
取材前から、とにかく緊張していました。高倉さんを自分のような未熟者が撮影していいのか? できるのか? この写真が自分にできる精いっぱいの1枚です。気に入っていただければ、幸いです。かしこ
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(撮影・たえ見朱実) |
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06年愛を取り戻して
今、日本に強い危機感を覚えている。日本映画界の至宝、高倉健(74)。新しい出会いを求めて、半世紀にわたる俳優生活で初めて中国映画に主演した。「単騎、千里を走る。」。確固たる地位も築き、名誉も得て、尊敬も集めるトップ俳優が、雲南省の奥地に単身入り、2カ月を過ごして出会ったのは、日本が失ったもの、自分が子供のころに確かに存在していたものだった。
終わりたくない
昨年1月11日。健さんはこみ上げてくる涙を抑えることができなかった。「単騎、千里を走る。」の中国・雲南省麗江ロケの最終日。ラストカットを撮り終えると中国人スタッフが、次々と胸に飛び込んできた。握手を交わし、何度も抱き合った。みんな泣いている。「ちきしょう」。唇をかみしめた健さんの目にも光るものがあった。人さし指でこぼれるものをはじき飛ばしても、おいつかなかった。
「終わりたくない。そんな気持ちでした」。
ロケは2カ月間。日本人は、健さんのほかはスタイリストとヘアメークの担当者だけ。初めての経験だった。俳優もプロは自分だけ。ほかはすべて地元の素人だった。
「僕だって50年もやっているんだから、そう簡単には泣きませんよ。みんなとの間に、間違いなく何かが生まれたんでしょうね。確かに何かを感じました。それが何だったのか。今でも少し混乱しています」。
健さんに出演を決断させたのは、チャン・イーモウ監督の熱意だった。同監督は「初恋のきた道」などで知られる中国映画界の至宝。「HERO」でハリウッド進出も果たした。文化大革命後の78年、外国映画の開放政策第1弾として上映された日本映画「君よ憤怒の河を渉れ」を見た。主演の健さんに強いあこがれと尊敬の念を抱いた。「いつかこの人の映画を撮りたい」。15年前に北京の映画祭で出会ったが、監督は言い出せなかった。地歩を固めた6年前、ついに健さんのもとに脚本を送った。
「実はほかにも中国の監督からお話はいただいてました。とりあえず珍しいから組んでみようとか、いろいろな計算もあったのでしょう。大体3回ぐらい断ると普通は持ってこないよね。この人は変わらなかった。本当に自分のことを思ってくれているんだと感じましたね。イーモウ監督を一言で言えば一心不乱。少しもぶれない。何かあるとすれば、この人の生き方が美しいんでしょうね。それにこのタイミングを逃すと4〜5年はできない。僕がもう俳優をやっていないかも知れませんから(笑い)」。
撮影を始めるまで、不安がなかったと言えばうそになる。
「自分はたった1人の日本人だから、しっかりしなくちゃいけない。日本人として、あれは何だよって言われないようにしなくちゃいけない。緊張感はありましたよ」。
たった1人の日本人
初日。緊張は引きずったままだった。同監督は高倉の感情が演技に出てくるまで、何度でも粘った。翌日からも、素人の共演者たちがNGを連発。同じシーンを50回も撮り直すことさえあった。
「監督がムチを入れるから、僕は自然になぐさめる方、ほぐす方になる。言葉は分からないけど、体をさすってあげたり、あめ玉をあげたり。そんなことを続けるうちに、1つのものに向かっていく意識が生まれてきたんですよね。考えてみると、監督がそう仕向けていたんでしょうね」。
イーモウ監督は助監督チームを女性で編成した。こまやかな気遣いが、戸惑いが多い健さんに役立つと考えたからだ。みんな映画の専門学校を出たばかりの若者だった。撮影に入って数日は、中国人スタッフと離れて食事をしていた健さんを自分たちのテーブルに引っ張り出したり、あれやこれやと面倒をみてくれた。
「気配りの連続でした。心を打たれましたね。戸惑いながら訪れた外国人を心からもてなす。監督もただ撮影するだけではなく、若いスタッフの教育もしているんだなと。大勢の人が集まって、外国人俳優を呼んで映画を撮るということの意味を教えている。そのへんから自分もすっかり入り込んでいけました」。
雲南省の奥地。標高2600メートル。空気は乾燥して薄い。決して豊かとは言えない土地で2カ月間、寝食、苦楽をともにした。撮影最終日、クランクアップ後のパーティーで若いスタッフの1人から贈り物を受け取った。日記だった。宿泊先の部屋に帰って開いた。日本語の訳も入っていた。撮影初日から毎日、書かれたものだった。途中、疲労で書くことができなかった日が3日間ほどあった。「この後はしっかり書きます」。そう記した後、最後までびっしりと健さんについて書き込まれてあった。
すっかり入り込んだ
「現場で泣いて帰ってきて、部屋に戻ってまた泣いているんだよ。まいったね。これが今、日本にはなくなっているのかなって。心の届け方みたいなものを、日本は間違いなく失っていますよ。それは何なのかと考えてみると、エネルギーを燃やすということじゃないですかね。特に若い世代は燃やしていない。燃やし方が分からないというより、燃やされたことがないからでしょう」。
骨を焼いて煙りを1時間すわされた
健さんは4人兄妹の上から2番目。兄と2人の妹がいた。福岡の子供時代を振り返り、エネルギーを燃やしていた母親を紹介した。
「ちょうど今ぐらいの季節です。寒くなってくると、お袋が下の妹たちの下着をこたつで温めてくれる。寝間着を全部脱がしてくれて、温めた下着を全部はかせていましたね。兄は自分でやっていましたが、自分も下から3番目なので裸で待ってました(笑い)。寒くなるといつも思い出します。今は部屋がそんなに寒くないからかも知れませんが、きっとそういう体験を今の子供はしてないんだろうなって」。
母親はエネルギッシュな人だった。小学生時代に健さんが結核の初期症状になったとき、毎日毎日、何とか滋養をつけさせようとウナギを食べさせた。かば焼きにして、その肝をブドウ酒に入れて飲ませた。骨を焼いてその煙を1時間吸わせることもあった。
「今は、お湯入れて食べられるインスタント食品がある。便利でしょうけど、それはどうなんだろう。お金があれば、ファミリーレストランに行って食べることもできる。違う気がするなあ。本当はやっぱり、子供のコンディションに合わせて、季節のものやお母さんが一生懸命作ったものを食べさせる。そういうことがエネルギーを燃やすということではないでしょうか。魂を入れるというか。お母さんがそう考えることで、子供ともっとつながっていく。そこにきずなが生まれるんじゃないかな。愛の反対は無関心と言うでしょ。愛なんだよね、すべて。何もかもが愛ですよ」。
今までになかった旅
今回の撮影を「今までになかった旅」と表現する。戦争を体験し、戦後60年を生き抜いた1人の男でもある。高度経済成長、バブル崩壊、長引く不況。戦後日本を見つめ続けてきた目に、中国の奥地で触れたものはどこかなつかしい、そしてこの上なく大切なものに見えた。
「日本は、豊かさと引き換えに、いろいろなものを失った気がしますね。心が通い合わなくなったというか、きずながなくなってきたということでしょうか」。
「単騎、千里を走る。」は、親子のきずなを取り戻そうと、ある目的を持って中国に単身乗り込む父親の姿を描いた。必死に目的を遂げようとする父親が、言葉も通じない地で戸惑いながらも、現地の人々の温かい心に支えられていく。健さんが今の日本に足りないと感じているものがくっきりと描かれている。その寡黙な視線には、健さんの切実なメッセージが込められている。
◆高倉健(たかくら・けん) 1931年(昭和6年)2月16日、福岡県生まれ。明大卒業後の55年に東映第2期ニューフェースに。56年「電光空手打ち」で俳優デビュー。「日本侠客伝」(64〜71年)「網走番外地」(65〜68年)「昭和残侠伝」(65〜73年)の3シリーズが大ヒットした。70年「燃える戦場」で米映画初出演。76年に東映を退社。77年「八甲田山」「幸せの黄色いハンカチ」でブルーリボン主演男優賞。89年「ブラック・レイン」92年「ミスター・ベースボール」とハリウッド作品に出演。99年「鉄道員」でモントリオール映画祭、ブルーリボン賞、日本アカデミー賞の主演男優賞を獲得。98年に紫綬褒章受章。
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