「仁義なき戦い」シリーズや「蒲田行進曲」などで知られ、日本映画界の中心的存在として長く活躍した映画監督の深作欣二(ふかさく・きんじ)さんが03年1月12日午前1時、前立腺がんのため都内の病院で死去した。72歳だった。昨年9月にがんを告白。闘病生活を続けながら、昨年末に新作映画の撮影に入ったが、体調を崩して入院していた。「映画作りは戦い」が口癖で、権力や固定観念と戦い続けてきた。新作には、がんと知りながら「この闘いで生涯を終えようとも一片の悔いもない」と悲壮な決意と執念で取り組んでいたが、病魔には勝てなかった。
11日昼すぎに容体が急変した。血圧が急激に低下し、主治医らが危険な状態と判断。付き添っていた妻で女優の中原早苗さん(67)が、深作さんの新作「バトル・ロワイアル2」の代行監督を務める長男健太氏(30)らに知らせた。都内のスタジオで撮影を行っていた健太氏が午後10時30分すぎに到着。「仁義なき戦い」の主演俳優菅原文太(69)も急を聞いて駆けつけた。十数人が見守る中、早苗さんが「欣二、欣二」と呼び掛けたが、眠るように息を引き取った。健太氏の強い希望で、15日の通夜までは取材陣の集まる自宅ではなく、都内で親族だけで静かに時を過ごせる場所に遺体を安置する。
昨年9月に行われた同映画の製作発表の席上で、96年に前立腺がんの手術を受けたが、全身の骨に転移していることを告白した。ドクターストップもかかっていたが「この闘いで一生を終えようとも一片の悔いもない」と撮影に入る決意を語った。4日間行った撮影では、イスから何度も立ち上がり、ときにはハリセンを手に「ヘタクソ!」と出演者たちを怒鳴りつけた。病魔に負けない闘志と執念を感じさせた。
映画人生は「闘い」の連続だった。15歳で終戦を迎えた。さまざまな価値観があっけなく崩れた。社会の矛盾や、大人たちへの反感が心に渦巻いた。「戦火のかなた」「自転車泥棒」など、リアリズムあふれるレジスタンス映画に共鳴した。闇市では、本音の暴力と生きるためのバイタリティーがあふれていた。そんな経験が、映画監督を志向し始めた深作さんの原点となった。
監督デビューから12年後「この世に善も悪もない。あるのは闘いだけ」と自らテーマを語る「仁義なき戦い」シリーズも、そんな経験から生まれた。義理と人情を重視したストーリー。大スターが主演を務め、脇役はあくまで引き立て役という、それまでの任侠(にんきょう)映画とは異なり、周囲の反対を押し切って文太、松方弘樹、北大路欣也ら若手俳優を起用した。
既成の価値観にとらわれない発想で、荒々しい群像劇を実現させた。手持ちカメラを駆使する斬新な手法も多用し、躍動感ある映像の実録路線を開拓した。若者たちの無残な死を描きながら、日本の闇の戦後史を活写した。暴力志向が強い印象も与えたが、細かい心理描写も巧みだった。同シリーズはドル箱だった任侠映画が下火になった東映だけでなく、映画界そのものを活気付けた。
「いい監督にとって、役者は単なる色、絵の具でしかないという感じがするときがある。僕はそれは違うと思う。どんなに日にちがかかろうと、金が掛かろうと、芸術映画ならばいいという巨匠もいるが、僕は映画を衰退させたのは、そういう巨匠にも責任があると思う」と語ったことがある。深作さんは実録路線にとどまらず「柳生一族の陰謀」で大作時代劇に挑戦する一方で、「蒲田行進曲」では笑って泣かせる良質な人情劇を演出した。「あの『仁義』の監督が…」と関係者もファンも驚いた。文芸、アクション、舞台の映画化と、ジャンルにとらわれず娯楽作品を世に送り出した。
最近、中学生42人が殺し合いを繰り広げる「バトル・ロワイアル」を製作し、独特の暴力描写を復活させ問題提起した。かつて「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と語った。最後の作品でも暴力描写にこだわった深作さんの真意は、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとしたのだろう。生へ執着し続けた深作さんが逝った。