元日本代表のネルソン吉村さんが急死
元日本代表MFの吉村大志郎さんが03年11月1日午後0時55分、脳出血のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。56歳だった。67年にブラジルから来日し、日本リーグ初の外国人選手としてヤンマー入り。驚異的なテクニックで「世界の釜本」を支え、チームに数々のタイトルをもたらした。70年の日本国籍取得後は日本代表としても活躍、引退後も指導者として後進を育て、現在はC大阪のスカウトを務めるなど、日本サッカーに多大な功績を残した。
突然の訃報(ふほう)だった。約1カ月前から検査入院していた吉村氏はこの日朝のリハビリ後、同室の患者にトーストを焼いてあげるなど普段と変わらぬ様子だったという。しかし「少し休む」と言って眠りについたまま、帰らぬ人となった。
かつてヤンマーの黄金期を支えたテクニシャンも、近年は病に苦しんでいた。数年前から何度かの入退院を繰り返したが、原因が分からなかった。昨年2月ごろには、肺に水がたまる症状で入院。C大阪スカウト担当としての活動をしながらも、周囲には「息が苦しくて地方出張はしんどい」と漏らしていたという。
日本サッカーにもたらしたものは、あまりに大きかった。釜本とのコンビで、日本リーグ下位だったヤンマーをトップチームに押し上げた。75年の日本リーグ最終戦、国立競技場での三菱との優勝を決める一戦には、当時としては異例の3万5000もの観衆が集まった。68年のメキシコ五輪後、低迷する日本サッカー界を支えた1人だった。
「ネコ」の愛称は、ネルソンの名とボールとじゃれ合う姿から。足にボールが吸い付く技術は、日本人に未知の驚きを運んだ。サッカー少年はその技をまね、その技見たさに試合に通った。当時ヤンマー監督のC大阪鬼武会長は「日本のサッカー界にめちゃくちゃ貢献した男だよ。あいつを見てほかの選手もうまくなり、ファンも増えたんだ」と、当時を振り返った。
来日した時に「私はブラジル人。1年で帰る」と決めていた吉村氏だが、結局37年間も愛する日本サッカーのために多くのものを残し、愛する日本で逝った。その後、多くのブラジル人が日本で活躍し、日本国籍を取得して日本サッカーのために戦ったのも、偉大な先人がいたからだ。指導者としても日本サッカーを愛し続け、スカウトとしてもFW大久保ら多くの人材を発掘した。まだ56歳。あまりにも早すぎる死だった。
写真=67年の日本リーグ、古河−ヤンマー戦での吉村氏(右)と釜本邦茂氏
| ◆吉村大志郎(よしむら・たいしろう) |
| 1947年8月16日、ブラジル日系2世「ネルソン吉村」として生まれる。5歳でサッカーを始め、サンパウロ州日系2世クラブリーグで66年に得点王を獲得。67年にヤンマー入りし、日本リーグ4回、天皇杯3回優勝。通算189試合出場の日本リーグでは72年にアシスト王に輝き、通算アシスト54は歴代5位。3度リーグベスト11に選ばれる。70年に「吉村大志郎」として日本国籍を取得。日本代表として73年のW杯予選など国際Aマッチ45試合(歴代32位)7得点。80年の引退後はコーチ、監督などを務め、現在はC大阪のスカウトとして活躍していた。
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| 葬儀日程 |
▼通夜 2日午後7時から尼崎市西長洲町3の7の7、阪神平安祭典会館で。
▼告別式 3日午前11時から同所で(通夜、告別式ともにキリスト教式)。
▼喪主 妻吉村多恵子(よしむら・たえこ)さん。
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釜本氏、目に涙「戦友だ」
釜本邦茂氏(日本協会常務理事、59)は、かつての「恋人」の訃報を団長を務めるU−22日本代表の遠征先、カタールのドーハで聞いた。1日の昼に日本からの連絡で知り、夕方の練習には目を真っ赤に腫らして現れた。「ヤンマーのいい時代を2人でつくった仲間。本当に残念」と話した。
もし、吉村氏がいなかったら「世界の釜本」は生まれていなかったかもしれない。それほど、大きな存在だった。67年に早大からヤンマー入りした半年後、吉村氏がブラジルからきた。「彼からボールテクニックなどを学んだ」。釜本氏は抜群の技術をまねて、盗んだ。68年のドイツ短期留学から帰国後は、1年間吉村氏の部屋で生活もした。
大学時代ゴールを重ねてきた強烈なシュートに、柔らかな「吉村流」のテクニックが加わった。ボールをピタリと止めるトラップを身につけて「不世出のストライカー」が誕生した。日本リーグ得点王7回、通算202得点というケタ違いの数字を最もアシストしたのも、吉村氏だった。
「ヤンマー立ち上げから一緒にやってきた。彼は戦友だよ」と釜本氏。「酒も飲まないし、引退後は別の仕事をしていたから、最近は会ってもあいさつするぐらい」と話したが、きずなは固い。「もう少し早くプロリーグができていれば…。もっといい仕事をさせてやりたかったけれど…」。そう話して目を潤ませた。
◆日本国籍を取得した日本代表選手 吉村氏に影響を受けて、ブラジルから来日した選手が、国籍を取得して日本代表として活躍した。ヤンマーのチームメートだったMF小林ジョージは72年に代表入りして国際Aマッチ3試合出場。読売クラブの与那城ジョージは85年のW杯本戦出場のかかった韓国戦前に「切り札」として代表入りし、2試合に出場した。
同じ読売クラブMFラモス瑠偉は、日系人以外では初の日本代表。89年に日本国籍を取得し、93年のW杯最終予選まで国際Aマッチ32試合に出た。97年のW杯予選前には平塚のFW呂比須ワグナーが国籍を取得して代表入り。初の本戦出場に貢献した。現在は清水のMF三都主アレサンドロが代表で活躍。水戸のDF田中マルクス闘莉王もU−22代表入りを目指している。
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