日本人で初めてプロボクシングの世界王者になった白井義男(しらい・よしお)さんが03年12月26日に肺炎のため川崎市内の病院で亡くなっていたことが28日、分かった。享年80歳。葬儀・告別式は行わず、28日に川崎市麻生区王禅寺東4の24の9の自宅で親族による密葬を終えた。戦後間もない1952年5月にダド・マリノ(米国)を下し、世界フライ級王座を獲得。4度防衛に成功した。引退後は日刊スポーツ評論家として活躍。白井・具志堅スポーツジムの名誉会長も務めていた。追悼告別礼拝式は、来年1月14日午後2時から東京・港区芝公園3の6の18、聖アンデレ教会で。喪主は妻登志子(としこ)さん。
戦後の日本に希望の灯をともした国民的英雄が逝った。26日午前9時20分、家族の見守る中で白井さんは静かに息を引き取った。年末という時期に配慮して28日に親族だけで密葬を行った。この日の夜、登志子夫人が「病室でも最後までボクシングのことを気にしていました」と明かした。
白井さんは5月に風邪をこじらせて入院。9月に退院したが、熱が引かず10月から再び入院していた。11月23日には80回目の誕生日を家族と祝い、今月17日には登志子夫人と51回目の結婚記念日を迎えた。肺炎をこじらせていたが、26日の朝も「サウナに入りたい」と話していたという。
戦後の国民的なヒーローだった。52年5月、東京・後楽園球場に4万人の大観衆を集めて世界フライ級王座に初挑戦。王者ダド・マリノ(米国)を判定で下し、日本人初の世界王者になった。当時はフライ級からヘビー級まで全8階級。世界王者は各階級1人だけだった。団体が乱立し17階級に細分化された現在とは、比較にならないほど世界王者の価値は高かった。しかも、敗戦の混乱と貧困を乗り越えての快挙。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた水泳の古橋広之進氏とともに、終戦後の日本に勇気と感動を与えた。

マリノ(右)と激しく打ち合う白井義男さん=52年5月19日
|
戦時下の43年11月に拳道会に入門。2週間でプロデビューした。8戦全勝の戦績を残して戦地へ。海軍航空基地に配属され、何度も死に直面した。しかし、ボクシングへの情熱が消えることはなかった。終戦後、焼け野原から厚手の布を拾い集めて自ら編んだリングシューズは、今も自宅に飾ってある。
48年7月、連合軍総司令部(GHQ)天然資源局勤務の米国人学者アルビン・カーン博士との出会いが人生の転機になった。同博士の合理的かつ徹底した反復練習で急成長。国内でフライとバンタムの2階級制覇。左ジャブとフットワークを駆使した華麗なアウトボクシングで、4度防衛に成功した。
引退後、白井氏は家族で身内のないカーン博士を引き取った。重い痴ほう症を患ったかつての恩師を、夫婦で献身的に看護した。過労で夫人が入院するほどの苦労だった。95年にはボクシング界で初めて勲4等旭日小授章を受けた。70歳を過ぎて具志堅用高氏と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設。後進の指導に当たっていた。最後までボクシング一筋の人生だった。
| ◆白井義男(しらい・よしお) |
| 1923年(大正12年)11月23日、東京・荒川区三河島生まれ。43年(昭和18年)に拳道会に入門。わずか2週間後に1回KO勝ちでプロデビュー。戦前は8戦全勝。その直後に召集され海軍に入隊。終戦翌年の46年に現役復帰も、軍隊生活で患った座骨神経痛の影響で低迷。48年に米国人学者のカーン博士に出会い急成長。49年1月に日本フライ級王座、同12月に同バンタム級王座を獲得。52年5月、世界フライ級王者ダド・マリノ(米国)を判定で下し、日本人初の世界王者に。当時、同階級最多の4度防衛に成功。54年11月にパスカル・ペレス(アルゼンチン)に判定負けし王座転落。55年5月の再戦でKO負けして引退した。通算成績は72戦50勝(22KO)9敗4分け9EX(エキシビション)。引退後は解説者として活躍。94年に白井・具志堅スポーツジムの名誉会長を務めていた。家族は登志子夫人(71)と1男2女。
|
| 葬儀日程 |
▼追悼告別礼拝式 04年1月14日午後2時から東京・港区芝公園3の6の18、聖アンデレ教会
▼喪主 妻登志子(としこ)さん
| |
悼む
スポーツマンのお手本のような人だった。国民的英雄だが、偉ぶったところがまるでなかった。孫ほども年の離れた記者に敬語で話し、酒席に着けば初対面にも率先してビールを注ぐ。同席者が恐縮する姿を何度も目にした。栄光の時代を知らない世代に、なお尊敬され続けた英雄だった。
15年前、ある選手の公開練習が前日に急きょ延期になった。翌日、私は評論をお願いしていた白井さんへの連絡を忘れていたことを急に思い出した。当初予定された時間にジムに恐る恐る顔を出すと、白井さんは笑顔を返した。「ちょうどいい散歩になりましたよ」。怒るどころか、逆に私の心情を気遣ってくれた。涙が出そうになった。
直接聞いたことがある。「なぜそんなに謙虚なのか」。白井さんは即答した。「世界王座を奪取して花道を帰るときです。著名人や関係者にあいさつを終えた僕に、コーチのカーン博士が球場の最上段を指さしてこう言ったんです。ヨシオ、わずかな生活費を握り締めて応援に来たあの人たちの気持ちを忘れてはいけない、王者になっても謙虚な心を忘れるな、と」。
半世紀を経ても、なお師の教えを貫くいちずな心。だからこそ苦難の時代に白井さんは世界王者になれた。快挙はカーン博士の存在抜きには語れまい。しかし、一方で白井さんだからこそカーン博士の厳しい指導を成就できたともいえる。「徹底した反復練習。左ジャブだけを2時間打つこともあった」と本人から聞いた。
引退後は事業に手を出すこともなかった。白井・具志堅ジムの名誉会長に就任したのも70歳を過ぎてからだった。「事業やジム経営は失敗もつきまとう。おまえは日本人初の世界王者だ。後々まで日本の若者のお手本でいなければならない」というカーン博士の忠告を守り抜いた。80年間の生涯を白井義男さんは「世界王者」としてまっとうした。【スポーツ部 首藤正徳】
|
|
|
|

具志堅氏(右)と名護明彦の公開スパーリングを見守る=99年11月2日
|
カンガルーと試合、きっかけに驚いた
白井さんとジム運営してきた元WBA世界ジュニアフライ級王者の具志堅用高会長(48)は、17日に病院へ見舞ったのが最後の別れになった。「翌日の試合に出場する選手のことを気にかけて、最後まで後楽園ホールに行かなきゃと話されていた」と故人をしのんだ。具志堅会長は世界王者だった現役時代から、白井さんに声をかけてもらうのを楽しみにしていた。白井さんが小学校6年生の時、近所の夜祭りでカンガルーと試合をしたのがボクシングを始めるきっかけになったと聞いて驚いた。
ジャブとストレートの基本を徹底させる選手の育成方法を見習い、「人生は勝負だ」と言う白井さんの口癖は具志堅会長自身の人生のテーマになった。「ご自分も腰痛で苦しんだので、選手の体調を常に気にされていた」と言う。2人で世界チャンプをつくるのが夢だった。日本ボクシング界、そして具志堅会長にとっても偉大な存在だった故人の功績に、ジムの名称は変えないつもりだ。
|