自民党森派の前身の三塚派会長を務め、蔵相、外相、通産相などを歴任、国鉄の分割・民営化に手腕を発揮した元衆院議員の三塚博(みつづか・ひろし)氏が04年4月25日午後7時45分、病気のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。76歳。宮城県出身。自宅は東京都世田谷区船橋3の26の2。葬儀・告別式は29日午前11時から東京都文京区本駒込3の19の17、吉祥寺で。喪主は長男英介(えいすけ)氏。
早大卒業後、宮城県議などを経て72年に衆院初当選、旧宮城1区、宮城3区で連続10回当選。豊富な閣僚歴とともに、自民党でも政調会長、幹事長を務め、一時は政界のトップリーダーをうかがう位置に付けた。
故安倍晋太郎元幹事長の死去後、三塚派として派閥を継承し、91年には自民党総裁選にも出馬した。しかし世代交代を求める動きが強まり、98年に森喜朗前首相に派閥会長を譲った。
中央政界入りは45歳と比較的遅かったが、持ち前の馬力で頭角を現し、中曽根内閣で運輸相として初入閣。政局観には定評があり、旧安倍派内で地位を固め、後継をめぐりライバルの加藤六月氏との争いを制して昭和生まれの初の派閥領袖となった。
運輸族として鳴らし、竹下内閣で通産相、宇野内閣で外相、橋本内閣で蔵相を務めたほか、海部、宮沢両政権では自民党政調会長と党内きっての政策通だった。河野洋平総裁当時に待望の党幹事長に就任したが、河野氏の総裁再選断念でわずか2カ月に終わった。
蔵相時代は財政構造改革、金融、経済改革を指揮したが、大蔵省汚職事件で引責辞任に追い込まれた。蔵相辞任後は、求心力が低下、森氏に派閥をバトンタッチ。03年の衆院解散・総選挙を機に政界引退した。