故田中角栄元首相の元秘書で政治評論家の早坂茂三(はやさか・しげぞう)氏が04年6月20日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。73歳。田中氏の政務担当秘書を約23年間、務めたが、85年の田中氏入院を機に長女の田中真紀子前外相と対立。田中事務所閉鎖に伴い、政治評論家として独立し、田中元首相の姿を描く著作を多数発表した。テレビのトーク番組でホストを務めたほか、ドラマにも政治家役で出演した。
早坂氏は、早大卒業後、東京タイムズ社に入社し、社会部、政治部などを担当。田中蔵相時代の62年に自ら志願して大臣秘書官を務め、その後、政務担当の秘書を長らく務めた。72年に出版された「日本列島改造論」はスタッフの1人として執筆。83年にロッキード裁判で懲役4年の実刑判決が出た際には「議員辞職せずに闘い抜く」という田中所感を代筆している。政治記者からはその態度の大きさに「傲岸不遜(ごうがんふそん)人士」と陰口をたたかれたが、「先生」ではなく「オヤジ」と呼んだ田中元首相を陰で支えた。
田中元首相が脳梗塞(こうそく)で倒れて入院した85年に田中真紀子前外相と対立して独立。早坂氏は後に「きついリハビリは、目白(の自宅)ではダメだと言ったが、お姫様(真紀子氏)は2回にわたってオヤジを自宅に連れ帰った」などと明かしている。田中元首相が死去した93年12月には田中邸を訪問したが、遺体との対面は許されず、真紀子氏とは言葉も交わさなかった。
独立後は「田中角栄の足跡を発掘できる身近な人間、内側の証人」の立場を生かして精力的に活動した。「オヤジとわたし」「政治家田中角栄」など十数冊の著書を発表し、多いときは1日3回、計2800回以上の講演をこなした。また、自民党総裁当時の河野洋平衆院議長「敵前逃亡の常習犯」と指摘するなど、辛口の評論を貫いた。
テレビのトーク番組「茂三の渡る世間の裏話」のホスト役を務めたほか、92年にはテレビドラマ「ジュニア」に副総理役で出演して池上季実子らと共演した。
99年5月には羽田空港を富山に向けて出発しようとした旅客機内で、座席を倒したまま客室乗務員の指示に従わず、同機の出発を約40分間遅らせる「事件」も起こした。
「倒れたら負け。最後に笑うのは丈夫で長持ちの人。長持ちの秘けつは『食って、寝て、いやなことは忘れる』という角栄三原則の実践に尽きる」などと語っていた早坂氏。真紀子氏との対立から平河町にあった田中事務所を閉ざされたはくしくも85年の今日、6月22日だった。
写真=83年10月、ロッキード事件丸紅ルート判決公判後、再釈放手続きを終え東京地裁を出る田中角栄元首相と早坂茂三氏(右)
中曽根康弘元首相 早坂さんは(田中角栄元首相のことを)「オヤジ」と呼んで、決して「先生」とは呼ばない人だった。忠実な秘書だった。(田中元首相の)演説の細かいことも彼が書いたと聞いている。評論家としても、経験に基づき、現実論に立脚してすばらしい実績を残していた。まことに惜しいことだと思う。
ジャーナリスト田原総一朗氏 終生、田中角栄さんのために自分を無にして、守り抜いた人だと思う。田中さんは一時、日本の悪のドンみたいな扱われ方をされた。その田中さんは優れた人なんだと言うために「悪」の部分を自分が全面的に引き受けた。マスコミから批判を浴びながらも、田中さんを懸命に守った人だ。田中さんが総理を辞めた後もよく会っていた。普通、権力を失った人から去る人が多いが、早坂さんはそういうことはしなかった。これはなかなかできることではない。私はその点で、早坂さんを信頼していた。人間的にもとても面白い人だった。
元自民党総務会長・松野頼三氏の話 あか抜けてスマートな人だった。角栄さんを参謀のようによく支え、角栄さんの行動をまあまあと言ってよく抑えていた。常識的な人物で、角栄さんより冷静だった。まだ若いし、惜しい人を亡くした。