清水一筋で終われる、沢登「幸せだよ」
<ありがとう!!ミスター・エスパルス沢登正朗(1)>
清水MF沢登正朗(35)が現役を引退した。J1通算381試合出場は歴代1位、85得点はMFながら歴代10位という輝かしい数字を残した。92年のJ創設時から14年間、清水一筋でプレーしてきた。日刊スポーツでは「ミスター・エスパルス」に敬意と感謝の気持ちを込めて、新春特別企画を開始します。沢登選手がその思いを語るインタビュー、歴代担当記者の思い出コラム、栄光とその裏側に迫る秘蔵写真、特別プレゼントなどたっぷりです。
沢登は昨年11月23日の神戸戦の後、翌24日に引退会見を開くと発表した。まだ第一線でプレーし、チームを引っ張っていた背番号10の引退。衝撃的だった。
沢登「周囲には『いきなり』だったと思うけど、自分は前々から決めていた。2年前、2年契約したときに、この2年を全うしよう、今シーズンがよくても悪くてもやめよう。ちょうどいい時期かなと。(理由は)年齢的なもの。体力的には、まだできるな。自分もほかの選手たちもそう思っている。フィジカルトレをやっても、普通にみんなと同じようにこなしているし、その中でも速い方だしね。確かに現役にこだわる選手もいる。ここまで自分もこだわってきたよ。ただ、第2の人生も長い。切り替えるなら今かな」。
そこには「輝いているうちにやめたい」という美学があった。自分の引き際を自分で決め、きれいに去りたいという価値観だ。
沢登「(引退を後ろに)引っ張れば引っ張るほど、体力的な問題も出るだろうし、出場機会は激減する。そこでやめるのはいやだった。最後のシーズンも、スーパーサブ的存在だけど、それに納得しながら1年間やってきた。体もまあまあ切れていたと思うよ」。
現役最後の試合となった11月26日の鹿島戦。8月24日東京V戦以来13試合ぶりに先発出場が巡ってきた。前半2分に強烈な左足シュートを放つ。豪快にダイビングヘッドも試みた。後半18分には自陣右サイドから左のFWマルキーニョスに40メートルのパスを通し、J1残留を決めるゴールを導いた。見る者に「引退は早過ぎる」と思わせた。
沢登「でもねえ、前半で足がつっちゃったんだよ。ほら、普段は長くても15分くらいでしょ。それがいきなり先発。きついんだよね。そういう体になっちゃうんだよね。常に90分、60分やっていれば持つんですよ。でもたまにだと、持たないんだよね。最後の試合って思っていたから、そこまでやれたけど、しんどかったですね、正直。タイミング的に先発になったんです。ちょうどけが人が出て。本当はサブだった」。
ホーム最終戦、引退セレモニーがあったからの「温情采配」ではない。J1残留をかけた一戦だった。そうした「舞台」が巡ってくるのも大物の証し。
沢登「結局ここまで、いろんな意味で巡り合わせがいいですよ。大学を卒業したらプロリーグができて、そのまま入れたし、どの世代でも優勝を経験できた。流れがいい方向に向いている」。
今は現役を離れた寂しさよりも、安堵(あんど)感の方が断然強いという。
沢登「終わってプレッシャーから解き放たれた。それまでは『J2降格の危機』っていう状態のプレッシャーの中でやってきたから。それがなくなったってことでホッとしているんだよね。J1残留だけが気掛かりだった。レイソルに(残留争いの)直接対決で勝ったとき…正直悩んでいた。いつ引退を発表しよう。ヴィッセルに勝ってほとんど決まりだったから『じゃあ24日に会見しよう』って、いちかばちかのかけだったの。ヴィッセル戦が引き分けだったら、発表をどうするか、考えていたかもしれない。J2に落ちたらやめるわけにはいかないと思っていたから。J2に落ちたら(J1に)上げてやめなきゃいけないというのがあった。やめるなら、ホーム最終戦の前にみんなに引退を発表できなきゃ寂しい。ホームでファンにサヨナラを言わなきゃいけないと思っていた」。
清水エスパルス入団の際の話になると、必ず「レールが敷かれていた」と表現する。ずっと、同じ表現を使い続けている。
沢登「そこに乗らなければならない状態だった。ほかのクラブの話も聞きたかったけど、その時間はなかった。『入るきっかけは?』って聞かれると、いつも『レールが敷かれていました』って答えるの。来てよかったですよ。ここ一筋で終われることは幸せだね。プラスの方が多かった。当然マイナスの部分もありますよ。それよりプラスの方が上回った。『エスパルスと言えば沢登』と名前もそこまでいった。それがうれしかった。『ミスター・エスパルス』と言われるのは、気持ちいいですよ。ファンの方には感謝しています。いろんなことでいいこと言ってくれる人もいれば、当然、厳しいことを言う人もいる。それはエスパルスのためを思って言ってくれている。正直に受け止めてきた。『終わったから』じゃなく、ファンには感謝している」。
現在は、1つのクラブでプロ生活を完結できる選手はまれだ。能力がある選手は、若くてもすぐに海外クラブへ移籍したがる時代だ。起用法や年俸への不満から、簡単に「移籍志願」を口にする者もいる。
沢登「海外は行きたいと思いましたよ。今はそういうルートができて、なおかつ日本のレベルが上がった。当時はカズさんが(海外クラブへ)行ったくらいだった。でも海外でやりたい気持ちはずっと持っていたよ。カズさんがそういう道をつくってくれたし。イタリアだけじゃなく海外は。それは自分の経験じゃないですか。経験値が上がる。ただ、自分から行く勇気がなかった。『オファーがあれば行きたい』っていう…。自分からすべてを捨てて行く勇気がなかった。独身だったら別だろうけど、家族がいたし、最終的には『日本にいて、ここでいいだろう』と」。
14年間、沢登本人より、エスパルスそのものに浮き沈みがあった。97年11月には倒産危機、最悪の場合はクラブ解散という話まで噴き出した。
沢登「つらい時期はね、クラブがなくなるっていう話が出た時。どうしようかと思ったんだよね。なくなったら、当然移籍しなきゃならないわけで、そういう方向も考えていかなきゃならない。その時が一番つらかった。ほかのクラブからいろんなオファーがあって、ずっと考えていた。『つぶれるまでは返事はできない』しかなかった。このチームは年俸いくら、あのチームはいくら、って次々に来る」。
オファーが殺到した。高額年俸を提示するクラブはいくつもあった。
沢登「エスパルスが残るなら、ここにいたいという気持ちがあった。なくなるなら移籍しなきゃならない。存続が決まると同時に『すいません』って、ほかのチームは断りました。でも、そういう状況だから経営も大変で、年俸も抑えられた。ほかのチームに行けばもっともらえた。お金で考えるなら当然移籍でしょ。でも残った。そういうことで会社側も気持ちを分かってくれた。普通は(ほかのクラブへ)出るでしょ。年俸抑えられるわけだから。(高額年俸提示)それを捨ててまで残った」。
理屈ではない。沢登はエスパルスだけでなく、清水という町を背負ってサッカーしてきた。エスパルスに入る前から…。
沢登「それはあるんだよね、裏切れない。ここ(清水)で育ってきたから」。
だから、清水にクラブが生まれることになった時には、人一倍喜んだ。
沢登「うれしかったな。ここにプロチームができるって。まだ当時ヤマハ(ジュビロ磐田)がプロリーグに参入するかどうか、分からなかったし、静岡県に1チームしかないなんてちょっと寂しい。そりゃあうれしかったですよ」。
92年から14シーズンを同じJチームで戦い続けた選手は沢登と鹿島MF本田泰人(36)だけだ。本田は鹿島入りの前、本田技研に所属している。真の「一筋」は沢登だけとも言える。【構成・岡田美奈】
[2006/1/4/10:33 紙面から]
写真=沢登の笑顔からにじみ出るしわの奥に、これまで幾多の修羅場を切り抜けてきた苦しみが刻まれていると感じた(撮影・松本俊)
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