「天才」加藤大治郎選手、26歳早すぎる死
「天才ライダー」加藤大治郎選手(ホンダ)が4月20日午前0時42分、搬送先の三重県四日市市内の病院で脳幹梗塞(こうそく)のため亡くなった。26歳だった。加藤選手は同県鈴鹿市の鈴鹿サーキットで6日に行われたロードレースの世界選手権シリーズ開幕戦・MotoGPクラスのレース中に転倒、意識不明の重体になっていた。事故から2週間集中治療を受けてきたが、意識は戻らなかった。01年には世界選手権(WGP)250CCクラスで世界王者に輝いた加藤選手の死は、日本のモータースポーツ界にとって大きな損失になる。
| ◆加藤大治郎の年度別成績◆ |
| 年度 |
レース |
成績 |
| 94 |
全日本選手権250CC |
総合7位 |
| 95 |
全日本選手権250CC |
総合5位 |
| 96 |
全日本選手権250CC |
総合2位 |
| 97 |
全日本選手権250CC |
総合1位 |
|
世界選手権日本GP |
優勝 |
| 98 |
全日本選手権250CC |
総合8位 |
|
世界選手権日本GP |
優勝 |
| 99 |
全日本選手権250CC |
総合2位 |
|
世界選手権日本GP |
5位 |
| 00 |
世界選手権250CC |
総合3位 |
|
鈴鹿8時間耐久 |
優勝 |
| 01 |
世界選手権250CC |
総合1位 |
|
鈴鹿8時間耐久 |
4位 |
| 02 |
世界選手権MotoGP |
総合7位 |
|
鈴鹿8時間耐久 |
優勝 |
|
日本が世界に誇るライダーが逝った。転倒事故から2週間、加藤選手は真樹子夫人ら家族が見守る中、最期まで闘った。事故直後、1度は心臓が停止したものの奇跡的に蘇生した。だが、2度目の奇跡は起こらなかった。
加藤選手は18歳だった94年に国際A級ライダーに昇格し、10年足らずの間に一気に世界のトップライダーへの階段を駆け上がった。優しそうな童顔に似合わず、積極果敢にコーナーに突入するライディングスタイルは、日本だけでなく世界中のファンから支持された。MotoGPの公式ホームページではトップニュースで「Daijiro Kato Loses Brave Fight For Life(加藤大治郎選手が命をかけた勇敢な戦いに敗れた)」と全世界に伝え、その死を悼んだ。
世界選手権には96年日本GPの250CCクラスにワイルドカード(地元枠)でデビュー。97、98年の日本GPで連覇を飾った。01年は同クラスで年間11勝の最多優勝記録を打ち立て、世界王者にも輝いた。昨年3月には2輪選手として初めて文部科学省のスポーツ功労者顕彰を受けている。同年MotoGPクラスに昇格し、ランキング7位。世界最高峰の年間タイトルを狙えるただ1人の日本人選手として期待されていた。
「日本を代表するトップライダー、加藤選手の訃報(ふほう)に接し、深い悲しみでいっぱいです。輝かしい功績で夢を与えてくれた。ごめい福をお祈りします」。加藤選手の所属するホンダレーシングの金沢賢社長は悲痛な思いを言葉にした。3歳からポケットバイクに乗り始め、5歳でレースに出場。「バイクレースは危険」と公言する一方、00年からはジュニア世代のライダー育成のためにレースを主催してきた。心からオートバイを、レースを愛したフルスロットルの人生だった。26歳。あまりにも早すぎる。
写真=26歳で亡くなった加藤大治郎選手。写真は02年8月2日、鈴鹿8時間耐久ロードレース計時予選でトップタイムをマークしたときのもの(撮影・加藤哉)
◆加藤大治郎(かとう・だいじろう)1976年(昭51)7月4日、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。85年に全日本ポケットバイク選手権総合優勝。94年に国際A級ライダーに昇格。97年全日本GP250CCクラスで総合優勝。世界選手権(WGP)は96年日本GPの250CCクラスにワイルドカード(地元枠)でデビュー。97、98年の日本GPで連覇を飾った。00年からWGP250CCクラスにフル参戦。翌01年に11勝のシーズン最多勝記録で総合優勝。同年、2輪レース界で初めて文部科学省スポーツ功労者顕彰も受賞した。02年にMotoGPにステップアップ。総合7位でルーキー・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。162センチ、51キロ。家族は妻と1男1女。
◆加藤選手の転倒事故 4月6日午後2時にスタートした日本GPのMotoGP決勝の3周目。最終コーナー手前に2カ所ある「シケイン」と呼ばれるクランクコーナーの1つ目の入り口でコースアウト。防護用のタイヤ壁に衝突、転倒した。頭や胸を強く打ち、コース上に投げ出され、意識不明のままヘリコプターで病院に搬送された。鈴鹿サーキットは今年2月、シケインを1カ所から2カ所に増設したばかりだった。
◆MotoGP 2輪ロードレース世界選手権シリーズの呼称。125CC、250CC、MotoGPの3クラスに分かれる。01年まで最高峰は500CCだったが、02年から990CC4ストロークマシンが参戦可能になり名称も変更された。
文句なしの「MVP」取ってほしかった…
◆本紙記者、悼む 加藤選手が250CCクラスで総合王座を獲得した01年、東京運動記者クラブ・モータースポーツ分科会は「優秀選手賞」を贈った。最優秀選手は四輪の英国F3選手権で総合優勝を果たした佐藤琢磨だった。どちらの功績が上か判断が難しく、近年にない議論が続いた。
決め手となったのは、ある記者の一言だった。「大ちゃんはMotoGPクラスで優勝してからMVPをあげればいいんじゃないの?」。不思議と納得した。大治郎は近いうちに世界の頂点に立つ。だれもがそう確信していたからだ。いや確信以上のものだった。将来、彼は必ず世界一速い男になると分かっていた、という気持ちだった。
今は笑顔しか思い出せない。少年が格好つけて少し照れたような、人懐っこい笑顔。文句なしのMVPを取ってほしかった。それを手渡すときの笑顔が見たかった。【高宮憲治】
遺体自宅へ…レース仲間ら弔問
加藤選手の遺体は4月20日夕、東京都港区の自宅に戻った。関係者、レース仲間も駆けつけた。Fニッポン・ドライバーの本山哲は、父親が経営する埼玉・秋ケ瀬サーキットが加藤のミニバイク時代のホームコースだった縁で兄弟のように仲が良かった。「彼のファンでもあったが、その楽しみがなくなってしまった。でも、くよくよするだけじゃなく頑張っている姿を見せたい」と気丈に話した。今季のMotoGPに参戦中の玉田誠、今年2輪から4輪へ転向した武田雄一らも姿を見せた。
玉田誠選手の話 実感がない。顔を見て、ありがとうの言葉しか出なかった。今年から同じクラスで走れることを楽しみにしていたのに…。彼を目標にして走ってきた。お礼を言いたい。
武田雄一選手の話 これまでの人生の半分以上が彼と一緒だった。天才であると同時に努力の人でもあった。とにかく残念。レースで必死に頑張って大ちゃんを喜ばせたい。
◆ホンダ中本氏「信じられない」 ホンダでF1を担当する中本修平エンジニアリングディレクターは、加藤選手がデビュー当時は2輪の設計担当だった。4月20日、F1サンマリノGP参加のため滞在しているイタリア・イモラで「回復してくれると希望は持っていたのに…。信じられなかった」と話し、「大治郎のタイムを見て、ライバルメーカーが慌てていたのを覚えている」と思い出を語った。
◆欧州も悲しみ 加藤選手死去の報は、モータースポーツの盛んな欧州でも大きな悲しみをもって伝えられた。スポーツ専門放送局のユーロスポーツは事故直後からホームページで経過を報告してきたが、ニュースで「ユーロスポーツは、加藤選手のご家族に心からお悔やみを申し上げたい」と表現した。また、回復を祈る声が多かったホームページの掲示板では「さようなら、大ちゃん、安らかに」「ダイジロウのいないレースは考えられない」というファンからの悲しみのメッセージが100通以上も寄せられた。
加藤大治郎選手死去/PDF号外(2003年4月20日発行)
「お別れの会」9000人が献花
2輪ロードレースMotoGPの事故で4月20日に亡くなった加藤大治郎さんの「お別れの会」が5月18日、都内のHONDA青山で開かれた。全国から集まった約9000人のファンが献花に長い列をつくり、26歳で亡くなった天才ライダーの早すぎる死を悼んだ。会場には加藤さんの参戦マシンやライダースーツ、01年の世界GP250ccクラス制覇の写真などが飾られた。世界選手権の主催者側は加藤さんの殿堂入りを決定。父隆さんは「大治郎のファンの皆様に心よりお礼を申し上げます」とコメントを寄せた。
写真=加藤大治郎選手お別れの会で、パネルの前で手を合わせるファンの人たち(撮影・宮川勝也)
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