●大きな舞台だからこそ 小さなエピソードに共感 日本人の「心」を世界へ

 コメディアン萩本欽一(75)が描く20年の東京五輪は「粋な江戸っ子五輪」だ。東京生まれで、64年の東京五輪の頃は浅草でコメディアンの修業を積んだ。98年の長野五輪では、閉会式の司会を務め、開会式も現場に足を運んだ。司会、演出家と幅広い分野で活躍する欽ちゃんが、長野の体験を基に、4年後に迫った2度目の東京五輪への期待をドン !  と語り尽くした。【取材・構成=荻島弘一、岩田千代巳】

●「あの人にこんな世話になった」泣けるセレモニーを

 最近、開会式も閉会式も工夫しすぎて、腕の見せどころみたいになっちゃってるね。結構、選手とボランティアの間にすてきな話がいっぱいあるのよ。あれだけ大きなイベントにすると、そういうものがすっ飛んでるのね。実はそれが表に出るようなオリンピックは、日本人しかできないんだって気がする。

 「閉会式が一番泣けた」と言うぐらいの閉会式が見たいよね。僕だったら選手に「日本に競技に来て、ありがとうを言って帰りたい人はだあれ」とアンケートをとって。「あの人にこんな世話になった」とかエピソードを全部出して、でかいグラウンドに次々と「○○さんが来たよ」って。「日本に来てあの人に会えただけで、オレ、満足して帰れるよ」とか、そういうセリフを聞きたい。

 オリンピックの大きな舞台でね、大きなことをやろうとしてるの。大きなところで小さなことをやる方が、大きく映る時がある。その方が「粋」だってなるね。私がやったら、うーんと小さくする。選手と触れ合った子供、ばあちゃんもいるだろうし。オリンピックでつえついたばあちゃんが出てきて(触れ合った海外の)選手に「○○、帰っちゃ嫌だよ」なんて言ったらたまんないね。やってることはせこいんだけど、小さなことが大きくとらえられるオリンピック。そういう話が世界中に飛んでいくと、日本らしい気がする。世界の人が「日本に行ってそういう人に会えるような気がする」ってなるよね。

 02年のサッカーW杯(日韓大会)の中津江村の村長さんが好きだったなあ。(10年W杯南アフリカ大会で)「日本とカメルーンのどっちを応援する?」って聞かれて「うーん、カメルーンだよ」と答えたとき「ああ、日本人だ。大好きなセリフを言ってくれたよ」って思った。日本人は気持ちがわかる人種だから「お前、裏切るのか」という人は1人もいない。そこが日本人の非常に優れているところなのね。ここが出れば、総理大臣が「日本は戦争をしない国です」と言うよりも伝えられる気がする。

 ロンドンのオリンピックで、イギリスっておしゃれな国だなと思った。パラリンピックが観客でいっぱいになっている姿を見たとき「やっぱり英国って別格だなあ」と。五輪ってむしろね、お国のお顔を見られているっていう気がするのね。日本人は親切だとか、心優しいとか言ってるけど、それが前面に出る演出をしてもらいたいね。

●日本へ「ようこそ」手が痛くなるほど拍手して欲しい

 長野の時に開会式もスタンドで見てたの。選手が満面の笑みでワーッと手を上げて出てくるけど、お客さんが手をたたかないの。最初に、日本人が「ようこそいらっしゃいました」というごあいさつがないの。よーく見たら、前の方の人、写真を撮るのに精いっぱいで手がふさがっちゃってるの。やっぱり拍手ってさ、世界中の人への「ようこそいらっしゃいました」じゃない。ぜひ、大きな拍手をね、手が痛くなるほどたたいてあげてほしい。

 閉会式の司会をやった時、終わって「生涯にもう2度とないだろうな」って思ったから、みんなが去るまでずっと見ていたの。そうしたら、アメリカの記者の方がスッと寄ってきて、オレの手を握ってね、何か一生懸命、感激して英語でしゃべってるわけ。僕の中では「お前よく頑張ったよ、すてきな閉会式だったよ」と言ってくれてるような気がしてね。意味が分からなかったんだけど何となく泣けた。その話を前川(清=歌手)君に話したら「欽ちゃん、英語分かるの? お前、本当は失敗したけど心配することはないよ、という意味じゃないの?」って。あの時、感激した気分をね、話した人選を誤ったと思ってさ(笑い)。

 オリンピックがでかいなあと思ったのは、あの放送が終わった時、兄貴から電話がかかってきて「お前、親孝行したぞ」って言うの。僕の母親というのは、コメディアンが分からなくて、どんな番組も「ばかなことやるんじゃない」とずっと怒ってた人なの。その母親がテレビを見て「欽一、ごめんね、そんなに悪いことしてたんじゃないんだね。今までずっと、とんでもないやつだと思ったのがごめんね」と。あの母親がたった1本、認めてくれた作品だった。

 引き受けたときは正直言ってね、オレの人生って失敗から始まったから、オリンピックという大きい舞台で失敗して終わるんじゃないかと。もし失敗したら消えるから、仕事をとらないでくれって頼んでいたの。あれぐらいのきちんとしたことを言うとなると、大体あがっちゃって失敗するの。終わって、何がうれしかったって、あがらなかったのね。僕の中では、セリフ通りにやるという仕事で、きちんと最後までできたというたった1本。ですから、大きな仕事でしたね。

●北島、有森…苦しんだ姿をすてきな言葉に変えて…

 (64年の)東京五輪はいい思い出がないの。まだ、コメディアンの世界に入ったばかりの頃がオリンピックですから、お客さんが1人も(劇場に)来なかったというのがあるのね。その時に「オリンピックにはかなわないなあ、でっけーなあ、このイベントは」と。自分たちの生活に大きな影響を与えるって、なかなかねえ。でも、どういうわけだか、女子バレーだけ記憶があるんだよね。アナウンサーが「鬼の大松が泣いた泣いた」って言うのよ。あの涙がさ、あのセリフと同時に感激したねえ。

 オリンピックの選手は僕のあこがれだったの。お笑いやってたんじゃ、日本中が笑顔になることはありえない。オリンピックのメダルは、日本中をあんな笑顔にさせる。30年前、自分の子供を全員(3人)、オリンピック選手にしようと思って山の上に住んだの。小学時代から山に登って毎日学校に通って足腰を強くして、メダルが取れそうなスポーツへと思って。そうしたら、初日に学校から帰った3人が玄関でばったり倒れて「だれだ、こんな家に引っ越そうと言ったのは」と。奥さんが「オリンピックは絶望的だよ」と。引っ越し初日に夢が絶たれちゃった(笑い)。

 私はね、メダルの色とは関係なく、それに合った言葉を言った人に感激するわけ。言葉ですてきだったのが北島康介君。「何も言えねえ」という一言でね、つらかったのを乗り越えたんだな…っていうさ。今(金メダルを)取ったばかりだもん、「何も言えねえ」というのは正しいよ。有森裕子さんの「自分で自分を褒めたい」もそう。最近はみんな「多くの人に支えられ」とか、コメントがまとまってる。オリンピックももう、言葉で酔わしてくれる人がなかなか出てこなくなっちゃった。

 スポーツで好きじゃない言葉があるの。「楽しくやります」って。コメディアンでいうとね「笑いながらやるな」っていうの。人を喜ばせるのに、楽しいとかうれしいなんて気持ちで、そんなもん、人を笑わすことはありえないよと。苦しんで人を喜ばせて、喜んでくれたことに感激するんだよと教わったからさ。「いやあ、苦しかった」と言ってくれる方が泣けるな、オレ。リオデジャネイロも、東京でも苦しんだ姿を、すてきな言葉に変えてほしいね。

 ◆萩本欽一(はぎもと・きんいち)1941年(昭16)5月7日、東京生まれ。66年に坂上二郎とコント55号を結成。「スター誕生 ! 」「オールスター家族対抗歌合戦」などの司会でも人気を集め、80年代にかけて「欽ドン ! 良い子悪い子普通の子」「欽ちゃんのどこまでやるの ! 」など民放各局ゴールデンタイムでレギュラー司会を担当。「視聴率100%男」の異名を取った。15年4月から駒大仏教学部で学んでいる。家族は夫人と3男。血液型A。

(2016年5月18日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。