日米プロレス界のレジェンドで、1964年東京五輪レスリングヘビー級代表のマサ斎藤(74)が、2020年東京五輪を励みに懸命の闘病を続けている。引退した99年ごろに難病のパーキンソン病を発症。リハビリを休めば体の自由はさらに奪われる。だが、「GO FOR BROKE(当たって砕けろ)」の信条は失っていない。戦い続けてきた男の激動の半生、根底にある五輪への思いに迫った。【取材・構成=奥山将志】

栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤
栃木の病院でリハビリに励むマサ斎藤

■体重120→70キロ

 栃木県内のリハビリ病院にいる斎藤を訪ねたのは、昨年大みそかの午後1時だった。現役時代、はち切れんばかりに鍛え上げられていた体は小さくなり、体重は120キロから70キロまで落ちた。74歳。白髪交じりの頭に、背中も少し丸まっていた。だが、あいさつした記者を車いすから見上げた目は、戦いの中にいる男のそれだった。

 病は急に襲ってきた。99年、56歳でリングに別れを告げたころ、少しずつ体に異変が起きていた。ろれつが回りにくくなり、顎が細かく左右に震え始めた。1年以上も国内外の病院を転々とした結果、パーキンソン病だと分かった。原因は現役時代に蓄積された脳へのダメージ。暴飲暴食、リングに上がり続けるために飲んでいた強い鎮痛剤も関連していると言われた。ゴールのない、壮絶な戦いが始まった。


■過酷リハビリ

 16年がたった現在、進行は「末期」に入っている。1日に数回襲ってくる発作が始まれば、全身の震えが治まるまでじっと待つしかない。1回1時間のリハビリを1日に3回。365日、少しでも怠れば体の自由はさらに奪われる。何度も絶望し、何度も自分の運命を恨んだ。だが、逃げることは許されない。

 午後2時―。歩行、スクワットのリハビリを歯を食いしばって乗り越えた斎藤に、胸の内を聞いた。震える顎を自らの手で固定するように押さえ、息を整える。ゆっくりと、一言一言を紡ぐように言った。「パーキンソンは恐ろしい病気だ。だが、俺はこうして戦っている。絶対に負けるもんかと。こいつをやっつけないと、俺は生きていけないんだ」。


■転向の第1号

 戦い続けてきた。明大4年時の1964年に東京五輪に出場。コーチからは4年後のメキシコ五輪を目指すことも打診されたが、65年に馬場、猪木らがいる日本プロレスに入団した。五輪出場選手のプロレス転向第1号だった。翌66年に東京プロレスの旗揚げに参加するも、すぐに経営難に陥り、米国に活躍の場を求めた。後ろ盾など一切ない。わずかな荷物を手に、1人で海を渡った。

 日系人が日本人を演じ、ヒールとして活躍していた時代。確かな技術と、「元オリンピアン」という肩書は米国でうけた。「俺は東京五輪のレスリング日本代表だ。一番強いんだ」。現地のプロモーターに自らを売り込んだ。スター選手だったキンジ渋谷のタッグパートナーに抜てきされると、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心に大ブレーク。

巌流島決戦でマサ斎藤(左)はアントニオ猪木を締め上げる(1987年10月4日)
巌流島決戦でマサ斎藤(左)はアントニオ猪木を締め上げる(1987年10月4日)

■伝説「巌流島」

 その後もNWA、WWF(現WWE)、AWAと3大メジャー団体を転戦し、全米にその名をとどろかせた。日本でも猪木との「巌流島の戦い」など数々の伝説を残し、99年に引退。だが、斎藤の屈強な体に病が迫っていた。

 解説を務めていたテレビ局関係者からの一言が最初だった。「もう少し、はっきりと話してもらえませんか」。斎藤自身も身に覚えがあった。倫子(みちこ)夫人を呼び「なあミチ、僕の顎、少し震えていない?」と聞いた。医師から診断が告げられると、華やかな現役生活から一転、谷底へ突き落とされたような気分だった。「何で俺だけが、こんな目に遭わないといけないんだ」―。自らの運命を恨んだ。

 顎が震え始めると、拳でゴツンゴツンと何度も殴りつけた。ぶつける場所のない怒り。そんな日々が何年も続いた。13年11月には恐れていた「転倒」も始まった。つえ、車いすがないと生活ができなくなり、その後は、薬の副作用による幻覚にも苦しんだ。倫子夫人は「人生を諦めたように表情がなくなっていった。気持ちが前を向かないから、リハビリも続かない。五輪にまで出たファイティングスピリットが燃え尽きてしまったのかなと思うと、本当につらかった」。夫婦仲も壊れかけていた。

 だが、そんな暗やみに一筋の光が差した。13年9月、20年の東京五輪開催が決まった。斎藤にとって2度目となる日本での夏季五輪。胸に熱いものがこみ上げた。「僕は、2020年に絶対にカムバックするよ」。倫子夫人に言った。久しぶりの力強い言葉だった。


■昨年リングに

 昨年12月、斎藤は17年ぶりにリングに立った。旧知のプロレス関係者の計らいで大阪で斎藤を応援する小さな興行が開かれた。ファンに姿が見えない、リングぎりぎりまで車いすで近づいた。だが、そこからは「レスラー・マサ斎藤」だった。入場曲が鳴り響くと、すっと立ち上がり、自らの足でロープをくぐる。用意されたいすに座ることなくファンの声援に手を挙げて応えた。乱入した武藤敬司の猛攻を受け切ると、チョップから踏みつけ攻撃4連発。斎藤の状況を知るすべての関係者が驚いた。

 試合の前夜、斎藤は言った。「俺も普通の人みたいに、町を歩きたいんだ。絶対に歩いてみせる」。心の叫びだった。倫子夫人は涙が止まらなかった。東京五輪、プロレスのリング。斎藤の戦いのスイッチが入った。これまで以上にリハビリに熱が入り、担当する大柄な理学療法士を相手にした〝スパーリング〟も始めた。体1つで世界の頂点に駆け上がった男が、再び前を向いた。


■エンジョイ?

 五輪―。昔話を聞いていると、突然昨今のスポーツ界にかみついた。矛先は試合後の選手がよく口にする「エンジョイできました」というフレーズだ。「エンジョイの意味を分かっているのか。試合でエンジョイ? 勝負だよ。エンジョイは結果を出したやつが使う言葉だ」。勝つことで未来を切り開いてきた男の自負がにじみ出た。

 約1時間の取材を終えた。感謝の意を伝え、記者がいすから立ち上がろうとした時だった。斎藤から質問が飛んだ。「今、何年だ?」。「明日から、2017年です」。それを聞くと、視線を下げ、ゆっくりと指を折って数え始めた。「18、19、20…」「もつな」。わずかにほおが緩んだ。


 ◆マサ斎藤の東京五輪 最終選考会を兼ねた64年8月の全日本選手権はヘビー級でフリーとグレコの両スタイル制覇。五輪はフリーで出場し、グレコは2位の杉山恒治(サンダー杉山)が出場した。初戦の2回戦でロバートソン(スウェーデン)と引き分け、3回戦でマクナマン(英国)にフォール負けして失格した。


AWA世界ヘビー級のタイトルを獲得し、ベルトを腰に巻いてトロフィーを掲げるマサ斎藤
AWA世界ヘビー級のタイトルを獲得し、ベルトを腰に巻いてトロフィーを掲げるマサ斎藤

■レスリング重量級でも斎藤のような選手を エール続々

 病魔と闘う斎藤を励ます声が日本レスリング界から届いた。東京・京北学園高の後輩から兄のように慕われていた日本協会の今泉雄策副会長(77)は「人見知りだけど、頭もよくて優しい男。八田さん(元日本協会会長)にも、かわいがられていた。病気に負けずに頑張れ」と回復を願った。

 金メダルを5個獲得した64年大会で「レスリング王国」日本の名が世界に知れ渡った。目立ったのは軽量級だったが「まさ(斎藤)も世界的にトップレベル。メダルも狙えたのに、3回戦で負けて『何やってんだ ! 』って怒ったのを覚えている」と特別コーチを務めた今泉氏は振り返った。

 当時、代表候補選手は東京・青山の合宿所で練習に明け暮れた。フリー・フライ級金メダルの吉田義勝氏(75)は「重量級なのに斎藤は平気で、猛練習の後にミドル級の佐々木(龍雄=故人)とプロレス技で遊んでいました」と驚異のスタミナを振り返り「20年は一緒に会場で応援したい」と話した。

 日本が56年ぶりの金メダルラッシュを目指す2度目の東京五輪。福田富昭会長(75)は「ヘビー級でも斎藤のような強くて速い選手を育てたい。斎藤、一緒に頑張ろう」と、同世代のレスラーにエールを送った。


 ◆パーキンソン病 1817年に英国のジェームズ・パーキンソンにより初めて報告された。脳内の神経伝達物質ドーパミンが減少し、運動機能に関わる大脳からの信号がうまく伝わらず、筋肉のこわばりなどの症状が出る病気。手足が震えたり歩行が困難になったりする。厚生労働省の指定難病。ボクシングの元世界王者ムハマド・アリも長く闘病を続けた。96年アトランタ五輪では震える手で最終聖火ランナーを務めた。


■熊と戦った男 生ける伝説マサ斎藤

 ◆明大出身 本名は斎藤昌典。1942年(昭17)8月7日、東京都北区生まれ。

 ◆レジェンド 65年6月、日本プロレスでデビュー。67年に渡米し、長期にわたり米国で成功を収めた。獲得タイトルはWWFタッグ王座、AWA世界ヘビー級王座など多数。得意技は自身で考案したひねりを入れたジャーマンスープレックス、監獄固め。

 ◆巌流島の戦い 87年10月、山口の「巌流島」で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー、ノールール、無観客マッチ。2時間5分14秒の死闘の末、立会人裁定で敗れた。

 ◆発掘&指導 ビッグバン・ベイダー、スコット・ノートン、ドン・フライらを見いだす。05年に佐々木健介、北斗晶が立ち上げた団体では、全日本3冠ヘビー級王者宮原健斗、ノアのマサ北宮らを育成した。

 ◆逸話 熊と戦ったことがある。ホーガンとの抗争で人気が爆発し、米国で「ミスター サイトー」というカクテルができた。84年に同僚レスラーの警察官とのけんかに巻き込まれ、1年半、米国で収監された。2ダース以上ビールを飲み、特大サイズのピザを2枚食べるのが日課だった。


(2017年1月18日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。