「武道の聖地」が伝統を受け継ぐ。64年東京五輪で柔道会場だった日本武道館が、レガシー(遺産)を継承しながら20年東京五輪・パラリンピックでも使用される。64年大会男子軽量級(68キロ以下)で五輪柔道金メダル第1号に輝いた「広島の姿三四郎」こと中谷雄英氏(75)が武道館への思いを語った。3年後には半世紀以上の時を経て生まれ変わる。【取材・構成=峯岸佑樹】


表彰台喜びより安堵「任務終わった」

 その姿は53年前と変わらない。八角形状の建物で、富士山に似た大屋根の上に光り輝く玉ネギならぬ「擬宝珠(ぎぼし)」。寺院や橋に使われる装飾で都心の森を静かに見下ろす。今も独特の空気感が漂う「武道の聖地」だ。

 1964年(昭39)10月20日、日本武道館のセンターポールに柔道で最初の日の丸が揚がった。軽量級で先陣を切った中谷氏は全5試合をオール一本勝ち。計9分で終えた。準決勝は優勝候補のステパノフ(旧ソ連)、決勝はヘンニ(スイス)をともに合わせ技で下し、表彰台の真ん中に立った。1万5000人の観客から地響きのような歓声が響いたが、その声すら耳に入らなかった。

 中谷氏 表彰台に上がってようやく「俺の任務は終わった…」という気持ちになった。金メダルはうれしかったけど、涙が出るほどでもなかった。負けたら柔道をやめるぐらい追い込まれていたし、当時は男子全4階級が「優勝して当たり前」という風潮だった。柔道家にとって日本武道館は試合をする特別な場所で、それ以外にない。


東京五輪男子柔道軽量級、中谷雄英が金メダル64年10月20日
東京五輪男子柔道軽量級、中谷雄英が金メダル64年10月20日

他の会場と別格

 日本武道館は誕生から他の会場とは別格だった。64年東京五輪で柔道が正式競技に決まると、柔道愛好者の国会議員が「国会議員柔道連盟」を結成。正力松太郎衆院議員が「世界に誇る武道の大殿堂を建設して、日本伝統の武道の発展普及を図りたい」と表明した。代々木体育館や赤坂迎賓館近くなどの候補地もあったが、大物政治家らが動き、皇居がある北の丸に決定した。建設費約18億円(当時)のうち、国が10億円を負担。開館式には昭和天皇も臨席するなど異例ずくめだった。

 中谷氏は広島・広陵高から明大に進学。同期には坂口征二らのつわものがいた。東京五輪で体重別の試合が導入されることになり、活躍の道が開かれた。大学2年の時から代表強化合宿に参加した。

 中谷氏 最初は強い選手の練習相手みたいな感じでギリギリの強化選手だった。コーチからはよく「君たちは国民の血税で強化されているんだぞ」と言われたね。


 64年2月。モスクワ国際大会決勝でサンボ出身のステパノフに勝利した。畳はなくスケート場の氷の上に板を置き、その上にじゅうたんを敷いての試合。それまで独特の関節技に強化選手はことごとく負けて、この時の1勝が五輪代表選考の決め手になった。代表が正式決定したのは、五輪開幕1カ月前だった。

 柔道発祥の地の〝本家〟としてのプレッシャーはすさまじかった。本番では中谷氏を筆頭に中量級(80キロ以下)の岡野功、重量級(80キロ超)の猪熊功と順調に金メダルを獲得したが、最終日の無差別級決勝で明大の先輩、神永昭夫がヘーシンク(オランダ)に敗れた。この瞬間、柔道がJUDOへと変わった。

 中谷氏 当時の柔道は無差別級が全て。軽量級は前座にすぎなかった。その分、神永さんの負けは大きかった。あの時の武道館のシーンとした雰囲気は今でも忘れられない。ため息が漏れた後の言葉が何もなかった。3階級で優勝したけど「日本柔道が敗れた」と言われた。

 控室は通夜会場のようで、後日、明大では祝賀会も開かれなかった。

 現役引退後の69年2月、西ドイツ代表のコーチに就任した。実戦指導で72年ミュンヘン五輪では2個のメダル獲得に導いた。帰国後は全日本柔道連盟の推薦を受けて国際A級審判員の資格を取得し、96年アトランタ五輪には審判員として参加。現在は広陵高の生徒を指導している。

 先月19日に武道館で行われた全国高校選手権には広陵高の応援で訪れて、初めて観客席から観戦した。

 中谷氏 開会式で天井の照明が一斉に「バッ!!」とついた時は53年前を思い出した。これぞ、武道館だね。会場は変わっていないけど、空気感がいい。身の引き締まる思いになる。

 毎年4月29日の全日本選手権では、年に1回の柔道仲間との再会を楽しみにする。選手、コーチ、審判員と五輪柔道に携わったが、武道館への敬意は変わらない。今は64年大会以来となる五輪を心待ちにしている。自宅の居間の本棚に保管してあるボロボロの金メダルを取り出してこう言った。

 中谷氏 これまで本当に幸せな柔道人生を送らせてもらった。ただ、願わくば東京五輪に協力したいし、日本武道館でプレゼンターのような形で携わることが出来たら最高だね。人生に悔いなし。

 半世紀以上、「武道の聖地」として君臨してきた日本武道館。伝統を継承しながら、75歳の金メダリストの夢を乗せて歩み始める。


首に金メダルを提げる中谷雄英氏
首に金メダルを提げる中谷雄英氏

 ◆中谷雄英(なかたに・たけひで)1941年(昭16)7月9日、韓国生まれ。12歳から柔道を始める。広島・広陵高から明大を経て、大学4年の時に東京五輪軽量級で金メダルを獲得。引退後の69年に西ドイツコーチに就任し、72年ミュンヘン五輪で銀1、銅1のメダル獲得に貢献。96年アトランタ五輪では審判員を務める。全日本柔道連盟理事などを経て、現在は広島県柔道連盟理事長。小外刈りなどの多彩な足技を使い「広島の姿三四郎」の異名を取る。趣味は散歩とサウナ。165センチ、68キロ。血液型O。


2020年に向けリノベーション

 日本武道館は、20年東京五輪・パラリンピックに向けてリノベーションされる。64年大会に比べて出場選手が約5倍に増える見通しのため、来春に増設工事を始める。

 現在の150畳の練習場では狭く、本館南側に400畳の「中道場」を新設する。ドーピング検査室やレストランなども設ける。本館と約30メートルの地下道でつなぎ、移動の円滑化を図る。本館は19年9月から休館して改修工事を行う。今回はパラリンピックも開催されるためバリアフリー化も進め、車いす席などを大幅に増やす。女子トイレも増やし、全館冷暖房完備にする。老朽化している屋根などの改修を経て、20年7月の完成を予定している。

 武道館は誕生から別格だった。当時の柔道会場は代々木体育館なども検討されたが、国会議員柔道連盟の正力松太郎衆院議員が「世界に誇る武道の殿堂を」と提唱。大物政治家らも動いて、五輪開会式1週間前の64年10月3日に開館した。 会場使用は武道関係が最優先で音楽関係などの行事を含むと年間9割超の稼働率を誇る。3年後に改修工事は終了するが、伝統美が詰まった外観が変わることはない。日本武道館の三藤芳生事務局長は「武道館は武道と文化の発信地であり、日本のランドマーク。世界の人々を迎える施設として喜んでもらえる自信がある」と期待を寄せた。


 ◆日本武道館(にっぽんぶどうかん)1964年(昭39)10月3日、東京・千代田区の北の丸公園に開館。設計者は山田守氏で、公益財団法人日本武道館が運営。柔道、剣道、空手道など9団体の競技場として使用されるほか、文化イベントも催される。66年のザ・ビートルズ来日公演から「音楽の聖地」としても知られ、国内外のアーティストが公演している。総工費は約18億円(当時)。地下2階地上3階延べ床面積約2万1000平方メートル。利用料は武道関係が1日25万~50万円、音楽関係が500万円。収容人員は1万4471人。


「武道の聖地」が「音楽の聖地」に

 日本武道館はアーティストにとっては「音楽の聖地」だ。歌手サンプラザ中野くん(56)は爆風スランプ時代の名曲「大きな玉ねぎの下で」の秘話を明かした。

 日本武道館のてっぺんの擬宝珠(ぎぼし)を玉ネギに例えた曲で、85年7月に詩を書いた。「ある日、首都高速を走っていたら武道館が見えて、なぜか玉ネギを連想したんです。言い訳のつもりで作って、ロマンチックな曲では一切ありません」と告白した。当時はかぐや姫の再結成ライブやアリスのコンサートの警備バイトをしたぐらいで外観をよく見たことがなかったという。

 デビュー数カ月後の84年12月。突然、レコード会社の幹部から「来年12月に日本武道館を押さえたから満員にしてくれ」と言われた。全国のライブハウスを回っていたメンバーにとっては無理難題だった。「やっぱり無理」。結局、諦めて、曲で「空席の言い訳をしよう」と考えた。ペンフレンドの彼女を誘ったけど来ないから空いているという失恋ソングに仕立てた。

 初の武道館公演は超満員の大成功。同曲はアンコールの最後に熱唱した。「会場の拍手が温かかったぁ。緊張から汗だくで涙する余裕もありませんでした」。同曲は最寄りの東京メトロ東西線「九段下駅」の発車メロディーに使われ、ヒット曲「Runner」は武道館がメイン会場の日本テレビ系「24時間テレビ」内のチャリティーマラソンの応援歌になるなど日本武道館にはなぜか縁がある。「20年は『大きな玉ねぎの下で』を英語で歌いましょうか」。爆風スランプの名曲も生まれ変わるかも!?

 ◆サンプラザ中野くん(さんぷらざ・なかのくん)本名・中野裕貴。1960年(昭35)8月15日、山梨県生まれ。早大在学中の84年に爆風スランプのボーカルとしてデビュー。「Runner」「リゾ・ラバ」などのヒット曲を発表。99年に芸名をサンプラザ中野としてソロで活躍。08年に現名に変更。趣味は健康を追求すること。181センチ。血液型B。

サンプラザ中野くん
サンプラザ中野くん

○…ザ・ビートルズが初来日した66年6月の日本武道館公演は「大事件」になった。前例がなかったロック公演に賛否あり、機動隊も出動する厳戒態勢で行われた。3公演3万人の枠に20万人超の応募が殺到。警備上、アリーナ席を設けずに照明は明るいままで観客は座って観賞した。

(2017年4月19日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。