<アナウンサー 押阪忍(81)>

 今では現役最年長の私がアナウンサーになったのは昭和33年で、開局前の日本教育テレビ、現テレビ朝日の1期生でした。同期は6人。「俺たちがテレビを作っていく」という覇気というか、燃えているものを持っていたと思います。

 アナウンサーとしてはニュース、歌番組、スポーツといろいろ体験しました。特にスポーツは、相撲から始まって、柔道、野球を担当するうちに、女子バレーボールに出合いました。テレビ朝日はわりとバレーボールを放送していて、私は中継アナウンサーだけでなく、取材もしました。日本代表の北海道・滝川合宿を取材したのは私1人。「鬼の大松」の大松博文監督から「よく来たな」と声をかけられたり、監督の奥さま、美智代さんともあいさつを交わすようになりました。

 そんなこともあり、五輪中継民放代表の端くれで女子バレーボールをやれということになりました。ただし、各局から年長のアナウンサーがやってくるので、7年目で28歳だった私は新人扱いでした。当時の五輪中継はNHKと民放グループが2つに分かれて、同時に放送していました。映像はNHKが制作して、実況はそれぞれのアナウンサーが担当しました。そのため、どんな素晴らしいシーンがあっても、NHKのカメラが撮影しなければどうにもなりません。テレビはその一瞬を切り取った映像が勝負ですからね。それで悔しい思いもしました。

 「東洋の魔女」の快進撃が続き、いよいよ決勝のソ連戦。私は民放の実況アナウンサーのサポート役でした。NHKの実況は鈴木文弥さんで、日本優勝まであと1点に迫り「金メダルポイントです」と実況したのが、後に名言とされました。金メダルを取って、大松監督の胴上げへと続くと、私はセンターコートの後ろの観客席で美智代さんが泣いているのに気付きました。NHKは誰も奥さまだと気付きません。だから、映像がないんです。

 実況していた先輩に美智代さんの様子をメモでアピールすると、「奥さまがハンカチを握りしめて感涙にむせんでいらっしゃいます」と実況してくれました。大松監督は後に「女房と一緒に取った金メダル」と言っていましたが、まさにその瞬間だったのです。放送人ですから、映像がなかったのは残念ですけれど、歴史的瞬間の実況を陰で支えられたのは誇りです。81歳の私がマイクに向かえるのも、そんな瞬間に出合えたからだと思います。


(2016年10月19日東京本社版掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。