2大会連続の銀メダルを獲得した平野歩夢(19=木下グループ)の父英功(ひでのり)さん(46)が、日刊スポーツに手記を寄せ、成長を支えた苦労などを明かした。

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 息子たちは私の夢とリンクする存在だった。土地改良に関わる準公務員職を22歳の時に、辞めた。周囲からは「安定しているのに」と反対されたが、サーフィンのプロになりたかった。サーフショップを開き、何とかお金を工面し、県外のいろんな所を回っていた。

 そんな生活をしている時に長男英樹と次男歩夢が生まれた。一緒にサーフィンをやろうと思ったが、英樹が溺れて、海が怖くなった。私がサーフィンをしているのを、家の前で兄弟でスケートボードで遊んでいた。自然とスノーボードにも興味を持つようになった。

 いつしか息子たちを全力で応援していくと決めた。16年前、歩夢が3歳ぐらいの頃。日本海スケートパークを造った。東京に行かないと練習施設がない時代。村上市の老朽化していた体育館を借り、改修をした。天井は壊れ、電気もろくにつかない。800万円の借金をした。開いたけど、最初は不良が集まる場みたいな感じ。裏から入って、出ていくような人たちばかりだった。1日500円なのだけど…。最初はよく怒鳴って、追いかけ回していた。

 すべてが手探りな状況。運転手の仕事や、夜は居酒屋を開いたりしたが、お金には余裕がなかった。息子たちと練習で県外へ行っても、交通費と宿泊費を浮かせるため、1週間は車の中で生活したりしていた。息子たちのビデオを撮るにも、私のリフト代はもったいないから、歩いて雪山を登った。そんなハングリーな生活を積み重ねて、歩夢は中学生の頃から結果を出し、マネジメントも付いて、海外で戦うようになった。だけど歩夢には「頑張れ」という言葉は、小さい頃からかけたことはない。そんな声をかけたら「言われなくても、分かっている」と返されるだろう。

 スケートボードもスノーボードも遊びから入り、スポーツになった。道徳や礼儀などスポーツ的に早熟なイメージがあるかもしれない。だからこそ、次世代へつなげるためにも歩夢には幅広くいろんな人と出会うことで、人間的部分も成長して欲しい。(父英功)