世界ランク1位の高橋礼華(26)松友美佐紀(24=ともに日本ユニシス)組が、リターユヒル、ペデルセン組(デンマーク)を2-1で破り、日本バドミントン界初の金メダルを獲得した。1ゲーム目を奪われながらの逆転勝利。最後は、16-19と3点ビハインドから5連続得点での大逆転勝利。バドミントンにかけてきた2人の、執念の5点だった。

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 17、18、19点を決めたのは松友。ラリーから、思いきって前に飛び出す大胆さ、相手の読みを外したコースへの返球。世界屈指の判断力を持つ前衛松友の真骨頂だった。

 バドミントンを始めたのは6歳。当時教えた「藍住エンジェル」藤本伸監督は「前に飛び出すスピード、ネット際の技術が最初から高かった」と話す。加えて「負けることを許さない。妥協を許さない性格だった」。ストイックな練習への取り組みが周りに普及し、チームを全国優勝へ導いた。

 父伸二さんと母千恵美さんは、まだ小3の松友にこう問い詰めた。「本気でやるのかやらないのか」。とことんやれば、強くなり、お金がかかるはず。両親も腹をくくるつもりだった。答えは「やりたい」。涙ながらに即答した。

 母と一緒に買い物に行ったスーパーの中でも、棚と棚の間で1人フットワーク。どんな時もバドミントン一筋だった。ロンドン五輪女子ダブルス銀メダリストで一緒に代表でプレーした藤井瑞希は「バドミントンが大好きすぎる子。どう見られたいとか『モテたい』とかそういうのが無い。バドミントンのことしか考えてないんじゃないかな」と評する。ロンドン五輪出場を逃してから4年、リオの金メダルだけを見つめ続けた。

 20、そして最後の21点目は後衛の高橋。デンマークペアが思わず返球をそらす、力いっぱいのスマッシュだった。決めた瞬間、「きゃあ」と叫び、涙を流しながら、コートに倒れた。

 バドミントンを始めたのは7歳。母智子さんが指導する「橿原ジュニア」に出入りし、自然とラケットを持つようになったが、最初は空振りばかり。母が「文化系の子だと思っていた」と言う通り、センスはまるで無かった。1日400本の素振りの個人レッスンを受け、ようやく人並みのフォームになると、そこから頭角を現し、小4で全国大会優勝を果たした。父昭博さんは元社会人野球選手。強肩のDNAを引き継いでいた。

 中学から宮城・聖ウルスラ学院へ。父昭博さんは「お前は帰ってくるところはないよ。そのぐらいの覚悟があるんだったら出て行きなさい」と高橋を試した。「行く!絶対がんばる」。

 意気揚々と奈良を出ていったが、すぐにヘルニアを発症。バドミントンでなかなか結果が出なかったが、家には全く連絡しなかった。父昭博さんは「本人は苦しかったと思うけど、何も言ってこなかった」。バドミントンで結果を出さなければ家には帰れない。覚悟は揺るがなかった。

 妥協を許さない2人が07年からペアを組んで10年目。経験を積み、世界一の強いダブルスを作り上げた。タカマツペアを、同僚で女子シングルス世界ランク6位の奥原希望は「練習からオーラが違う」とたたえる。「どんな時でもぶれないのがすごい」。

 ぶれないからこそ、金メダルのプレッシャーをものともせず、五輪で力を示せた。「こういう時は自分たちの方が強い、追いつけると思った」と高橋。「自分がやってきたことを出せたから、逆転できた」と松友。日本バドミントン界初の五輪金メダルを手にしたのは、誰よりバドミントンを愛し、ささげてきた2人の女性だった。【高場泉穂】