「日本人の心」を愛し、伝え続けた人だった。プラハの自宅には日本刀を飾り、メールアドレスは1964年東京五輪と桜を意識した「sakura1964@……」で始まる。年間100回を超える講演では、いつも日本の話題を盛り込んだ。東日本大震災の翌12年には、募金を集めて被災地の子どもたちをプラハに招待した。

 東京五輪で体操女子個人総合優勝を含む3つの金メダルを獲得した。チェコスロバキア(当時)の金髪美女の華麗な演技に日本人は熱狂した。実はその演技は日本人によって磨かれたものだった。彼女は60年ローマ五輪の団体で金メダルを獲得した日本男子の演技に魅了され、大会前に日本の練習に参加するようになった。東京五輪で彼女の最大の武器になった「山下跳び」は、同五輪で個人総合優勝した遠藤幸雄氏から教えてもらったという。

 日本のどこに魅了されたのか。2年前、プラハで彼女に直接聞いた。それは高い技術レベルとともに、日本チームの醸し出す柔らかな空気感だったという。「練習も笑顔で楽しそうでした。難しい技をサラリと決めると、仲間と手を合わせる。その姿に感動したのです。ライバルにも笑顔で接し、大切な技も包み隠さず私に教えてくれました。厳しい顔で今にも大爆発しそうなソ連とはまるで違っていたのです」。

 68年メキシコ五輪でも個人総合連覇するなど通算7個の金メダルを獲得したが、同年の民主化運動「プラハの春」で、民主化に賛同する「二千語宣言」に署名したため、社会主義政権に職を奪われるなど20年以上も不遇が続いた。その苦難の日々を支えたのも日本だったという。励ましの手紙が数え切れないほど届いた。直接、プラハの自宅を激励に訪問した日本の体操仲間もいた。東京五輪でファンから贈られた日本刀を「日本の精神の象徴」と心の支えにして、政府による署名撤回要求を拒否し続けた。

 89年の「ビロード革命」後は、民主化の象徴的存在として大統領補佐官や国際オリンピック委員会の委員を務めた。しかし、93年に起きた、長男に殴打された元夫が死亡するという悲劇をきっかけに、14年間も重い心の病で療養生活を送った。ようやく社会復帰してからも日本人の心に感銘を受けたという。「日本人は誰も事故のことや病気のことを話題にしないのです。全部分かっているのに。苦しい経験を思い出させないようにという、優しさ、思いやりを感じました」。

 2年前の取材で彼女はこんな話もした。「私は何か行動しようとするとき、日本人だったらどうするか、日本人にどう思われるか、とよく考えるのです。私は自分が想像する日本人の心を鏡にしているのです」。私は思わず背筋を正し、彼女と接してきた日本人たちに感謝した。そして、日本人の心をここまで深く理解し、半世紀も愛し続けてくれた彼女の心にも敬意を表した。

 1年4カ月に及ぶがん闘病の末、8月30日、ベラ・チャスラフスカさんは天に召された。74歳。彼女こそ、東京五輪のレガシーそのものだった。【五輪パラリンピック準備委員 首藤正徳】