前回の小川晃司選手(51=福岡)の回で名解説をしてくださった原田富士男元選手(51)。“元”と表現しなくてはいけないのがとても寂しく思えるほど、その引退を惜しむ声が少なくありません。決断に至ったその思いをご本人にうかがってきましたよ。

2月21日に選手登録を消除した原田富士男選手。「なんだかまだ全然ピンと来ないんですけど…」という私に「いや、俺も」と話すお顔は変わらないままでした。

それでも選手生活にピリオドを打った理由をたずねると、少し優しい表情で「やっぱり息子2人が出たというのはあるよね。もっとレース場で先輩としてガンガン、アドバイスしたりとかするんかな? するんやろな♪ って思ってたんやけど、いざ行くと何ていうかねぇ…小さい頃の運動会で、走ってる途中にこけたら『あ~~!!』ってなる、あれがそのままなんですよね。なんか、わが子になったら冷静に見てられないんですよ。で、あーあ、ダメだこりゃ! と思った」とやわらかく笑います。

以前取材させていただいた、大山千広選手のお母さまの話をすると(大山千広選手の回のHAPPY SIDE STORYをぜひご覧ください♪)、「そうそうそうそう、もう全くそれ! ホントに大山博美さんの『もう見てられん』っていうのが、なるほどね。ホントやなぁって。小さい頃の運動会がまだ続いてて、自分が集中できてないんですよねぇ。意識してやってたんですけどねぇ」と、親子だからこその難しさを語って下さいました。

そんな中、親子3人で競ったお正月レースでは、しっかりと父の貫禄を見せての勝利。「水面に出ればね。息子とはいえ、“対選手”として走れたし、そのころは、終えるまでしっかり集中しよう! っていうのが一番でしたから、たまたま一生懸命走った結果です。でも、ああやって走れたのはすごいありがたかったし、お兄ちゃんの方と1-2で、もうこれ以上の思い出はないですね」という笑顔からは、感謝の気持ちがいっぱいに伝わってきました。

引退を表明した原田富士男選手(右)
引退を表明した原田富士男選手(右)

そんな富士男選手に、「引退を惜しむ声もありますが?」とお伝えすると、「僕は自分で二流選手という自覚があるんで、そういう風に言ってもらえるだけですごいうれしいですよ」とのお返事。びっくりして「二流ですか?」とおたずねすると「二流です!」とはっきりと返ってきた答えは「SGという最高の舞台でちゃんと戦えた! という実感がないんで」という理由からでした。

「僕はただ、ガムシャラにやってきたというだけで…周りにも一流選手は少ないんですよね。ただ、仕事に妥協しない。自分に妥協しない。そういうやつらが自然と集まったし、そのガムシャラなアホなやつらが大好きなんです。そういう周りの後輩たちが、さらにその下の後輩たちをしっかり指導してくれるようになった。頼りになる後輩に任せられるようになったのも安心できた1つの要因ですね」と、もう1つの引退の理由とともに、その仲間たちとのすてきなエピソードも聞かせてくれました。

最後の節となった地区戦の最終日前夜のことです。

富士男選手  「石川(真二)、川上(剛)、池永(太)、西山(貴浩)、乙藤(智史)、水摩(敦)…あんぽんたんが6人、俺の部屋に集まって『もう減量いいっしょ。ラーメン食いましょー』って言うんよ。普段、みんな必死で減量するし晩飯も食わんくらいやから、宿舎で夜ラーメンとか有り得ないメンバーなんやけど、みんな『じゃぁ、一口だけ…』って付き合ってくれて」

石川選手   「20年ぶりに食べましたよ」

富士男選手  「ねぇ、ホント久しぶりにラーメンとか食べたね」

石川選手   「結局、汁まで飲んで完食したし(笑い)」

富士男選手  「ね、おいしかったね…。ほんとみんなアホでしょ?!」

と、全てにガムシャラで愉快な仲間たちとの最後の晩餐は忘れられないラーメンの味となったようです。

2月18日、からつでの九州地区選最終日。引退を表明した原田富士男選手(左から4人目)は、レースを終えると仲間からねぎらいの花束を受け取りました(左から川上剛選手、乙藤智史選手、西山貴浩選手、1人おいて池永太選手、水摩敦選手)
2月18日、からつでの九州地区選最終日。引退を表明した原田富士男選手(左から4人目)は、レースを終えると仲間からねぎらいの花束を受け取りました(左から川上剛選手、乙藤智史選手、西山貴浩選手、1人おいて池永太選手、水摩敦選手)

現役中の思い出のレースをたずねると、「親子で走れたレースももちろんなんやけど、一番は丸亀の一般戦」との答え。

「優出のインタビューの時に、吃音(きつおん)症の方がいらっしゃって『ガンバッテクダサイ』って不自由な言葉で一生懸命応援してくれて。優勝してステージに行ったらまたその人が来てくれて、興奮気味やから余計に言葉が詰まるんやけど『アリガトウ!!』って必死で伝えてくれるんよね。実は、俺の死んだ兄貴が同じやったから、俺もその言葉を待てるし、かみしめながら握手して。なんか自分の兄貴と重なったんやろうねぇ。俺、涙流しながら『ありがとうございます!』って言ってたもん」と富士男選手らしい忘れられないレースを挙げてくださいました。

“原田富士男”という選手を振り返ると、「もうちょっと変化球投げたかったですねぇ」と、ずっと技巧派を目指してもがき続けていたと言います。「たとえ抽選運が悪くても、ペラでも整備でもずっともがいて悪あがきしとった。でもそれが後々自分のプラスになるから」という強い信念が、32年間の選手生活をとても豊かなものにしたからこそ、「ボートは最高の趣味で最高の仕事。ただただボートレースが好きで一生懸命にやってただけで、メチャクチャ濃い仲間ができ、自分の半生は最高でした!」と言えるのかもしれませんね。

最後に、ファンの方へのメッセージをお願いすると、「ファンの方には『ありがとうございます!』もうそれしかないんよね」と言いつつ「僕はホントに一番いいものに巡り合えたし、やっぱり自分がやってきたこのボートレースという競技が一番面白いと思うんで、今後はそれに恩返しするつもりで、まだまだこの仕事に何らかの形で携わっていくと思います。ボートをもっと面白くさせたいし、もっともっとボートレースは面白くなりますよ」と、にっこりと笑ってワクワクする約束をしてくださいました。

 
 

<エピソード1>結婚当初は、レース中に奥様を1人にすることを考えると不安で不安で夜も眠れなかったという富士男選手。だからこそ、どれだけけんかしていてもレース場に入る時の“行ってきます”だけは、電話やメールで絶対に伝えていたそうです。「それはもう最後まで変わらなかったですね。ほれた弱みですから」と、32年間を支えてくれた奥様へ感謝の気持ちを話してくれました。

 
 

<エピソード2>32年間、「無事に帰ってきて欲しい。それだけでした」という奥様が語ってくれたのは「いつどうなるか分からない命がけの仕事だからこそ、どんな状況になっても私が支えていこうと思った」という結婚した時の覚悟。

「それでも、何があっても頑張ってくれたし、成績がどうであろうが持ち込まずに1人で頑張ってくれていたので、人間的にも本当に尊敬しています」と、原田富士男選手の奥様で良かったと、強くはっきりと答えてくださいました。