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私はブラジルのコリンチャンスというチームでプレーした後、日本にやってきて、日本リーグ時代は藤和不動産(現ベルマーレ)のMFとして2年半、ブラジル時代を含め、合計通算8年半の現役選手生活を送った。
それはすばらしく、しかし厳しく、烈しい半生だった。 引退してからは、解説者、評論家としてサッカーとかかわる以上に、日本サッカー協会公認「さわやかサッカー教室」の指導に力を注いでいきた。 思いがけなくも、子供たちをコーチする歓びは、自分がボールをグラウンドいっぱいに追いかけ回すよりもはるかにエキサイティングで、感動的で、ドラマに満ちていた。 困難でもあったが、報われることも多かった。コーチングは、客観的にはスポーツの促進剤なのだろうが、コーチする本人にとっては、それ自体が素晴らしい体験であり、スポーツ以上のスポーツであることを、まず強調したい。 コーチされる側に立って考えれば、彼らの人生の極めて重要な時期に、極めて重要なスポーツ体験をアシストし、時にはそのすべての鍵をも握るのが、コーチという存在だ。 その責任は確かに重い。 子供たちの精神や肉体にスポーツというもう一つの生命を吹き込み、時にはその目標となり、ライバルとなり、理想の手本ともならなければならない。 何かのきっかけで「少年サッカーの監督を引き受けて下さい」と頼まれたり、押しつけられたり、あるいは「やってみようかな、考えただけで、まだ決断などしていない」のにそう決められてしまったり、戸惑いの中でコーチとしての道を歩み始める人も、中にはいるだろう。あるいは、自分の息子に、少しでも為になる、少なくとも「間違いだらけではない」手ほどき、いや足ほどきをしてやりたいと、意欲的な若いお父さんもいるかもしれない。 私がひとつだけアドバイスするとすれば、それは「指導者」という言葉やイメージ、立場に捕らわれずに、まず「子供の目線に、降りてみよう」という原点だ。 大人と子供とは、単に人生の時間的経験量の差だけでなく、ものを見る視点が、その高さが、根本的に異なっている。ものごとの受け取り方、感じ方も同じではない。「私は、偉い監督さんだ。コーチのおじさんだ」という構えで子供たちの前に立った時、彼らは「あぁ、この人は大人で、威張っている人なんだ」と理解し、その言葉をいちいち、子供の言葉に翻訳しなくてはならなくなる。 翻訳が必要な分だけ、時差や距離、隙間ができる。翻訳不能になれば、信頼感も損なわれ、子供たちはコーチを嫌いになるだけでなく、そのスポーツからも遠ざかろうとする。 私の「さわやか教室」は、いつも笑いの渦だ。丁寧な紹介を、校長先生や町長さんから受けて登場し、いきなり「オーッス!」と大声で挨拶する。「どうした、みんな、声が小さい。もう一度、オーッス!」。これだけで、子供たちは「ああ、翻訳しなくていいんだ、この人は、僕らと同じ言葉を使っている」と感じてくれる。 時には、平気で子供を泣かす。 きかん坊を選んで、わざといじめて、泣くまで意地悪する。それでも、元気のいい子は向かってくる。後で、「今日いちばん偉かったのは、この子だ」と、そのファイトをを皆の前で誉めてやる。 太った子を「デブ」と、あからさまに呼んでやる。もう一人太った子がいたら、「君はデブ2だ」とやる。どっーっと受ける。差別じゃない、ユーモアだ。 正直さも大切だ。子供は、きれいごとの嘘をすぐに見抜く。FKでは、守備側が人の壁を築く。体でボールを止めるわけだが、これは怖い、痛い(笑い)。「チームのために」などと説諭する代わりに、私は「実は俺も、いつもの隣のヤツに(ボールが)当たれ、当たれと祈ってたんだ」と言う。これまた、大受けする。「でも、ある試合で俺が顔面でボールを受けて、それでチームが勝ったことがあった。あんなうれしいことはなかった」とも言う。子供たちは、犠牲を払うことの歓びに気づく。けれど、それだけではやっぱりきれいごとだ。私は言う。「なぜ、俺がヒーローになれたか?それは、よけようとしたのに、逃げ切れなかったためだ」と。説明する。笑いの中で、子供たちは「よし、いつか俺も顔面でストップしてやるぞ」と、堅い決意を胸の中に燃え上がらせる。それが、伝わってくる。 私なりにいくつもの失敗をし、努力をし、その積み重ねで、今日まできた。今の日本代表、五輪代表の選手達のほとんどが、「さわやか教室」に参加した、ちびっ子だった。その一人一人の幼かった、ひたむきだった頃の横顔、ときどき思い出すと、笑ってしまう。感無量でもある。ある意味では、子供たちを育てるのは、日本代表をコーチするよりも、はるかに難しい。そして、責任も重大だ。けれど、報われるものも、またひとしおだ。 つたない字で、「おじさん、ありがとう」とか、「僕、ヘディングができるようになったよ、また来てね。デブ2より」などと書いた手紙をもらうと、胸はいっぱいになる。お母さんたちからも、お礼の手紙をもらう。そういう感動は、現役時代のグラウンドでは味わえなかったものだ。 結局の所、自分がコーチした子供らが、ずっと先になって、日本代表選手になろうが、やっぱりただの腹の出た中年おじさんになろうが、大切なのは「ああ、あの頃は面白かった」と、思い出してくれるかどうかだと、私は信じている。コーチングは、技術や知識だけでは、成り立たない。それが全てではない。 1対1の、人間対人間として、子供たちと相対し、付き合うことが、大切ではないのだろうか。その触れあいの時間を、ぜひ有意義に過ごしてほしい。 この本は「ルーキー」のコーチを含め、少年少女のサッカー指導の「現場」にチャレンジする方への、かっこうの道路標識、星しるべとなるはずだ。高校生、大学生で、後輩の指導に当たる選手兼指導者にも、大きな勇気と技術を与えてくれるし、むろんサッカー坊や、サッカー少女を家にお持ちの全国のご両親にも、参考になる部分は少なくない。 この本が、サッカーではまだ世界の一流国には至っていない米国で編纂されたのも、日本ではむしろ実状に則し、受け入れ易いかもしれない。米国スポーツ教育プログラムの、「コーチ・コース」の入門テキストとしても採用され、すでに数度にわたって重版されていることも付け加えておきたい。 |