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ま え が き
桜は、もう散りかけていた。平成16年の春は暖かく、例年より1週間も早い開花宣言は3月18日だった。長嶋茂雄さんは、東京女子医大で懸命に脳梗塞と闘っていた。その後、冷たい雨が降る日が多く、淡い桜は2週間も咲き続けた。長嶋さんと同じ68歳になる私には、ことのほか印象に残る特別な桜のように思えた。 長嶋さんが倒れてから、ちょうど1カ月後の4月5日、私は、35年ぶりに京王線の上北沢駅に降り立った。駅からしてガラリと変わっていた。地下に潜り、やっと外へ出られた。駅前の風景も昔の面影はなく、途方にくれた。何十回も通い慣れた長島邸への道程が見えてこないのだ。 待てよ、そうだ。長嶋さんのことで分からなくなったら“3”の原点に戻ればよい。直進。1本、2本そして“3”本目の道を左折。ここまできたら、いくら68歳の老いボケ? でも、通い慣れた道だもの、すぐに思い出せた。足が自然に旧長嶋邸に向いた。道筋の左右の家々は見覚えのある豪邸ばかりで、ほとんど変わっていないように見えた。 余談ながら、長嶋さんが倒れた現長嶋邸も田園調布駅から“3”を目当てに行けばいい。左そして右へ3つ。ちゃんと長嶋さんの家にたどり着けるようになっている。 さて、かつて長嶋さんが住んでいた上北沢のコンクリート3階建ての家は跡形もなく消えていた。敷地面積はそのままで、周囲を囲む生け垣だけはちゃんと生い茂っていた。隙間から中を覗くと庭は荒れ果てていた。そんな殺風景の中、大きな桜の古木が、寂しげな淡いピンクの花を咲かせていた。 現役の長嶋さんがめでていた樹である。間違いなくかつての長島邸跡なのだが、入り口の表札には「ガーデンビュー桜」とあり、6軒棟のアパートに変わっていた。玄関横には「現在満車中。連絡先は(株)ラトナー」の有料駐車場の看板がかかっていた。余りの変わりように私は息を飲んだ。 その帰途、私に衝撃が走った。光陰矢のごとし。このまま歳月の流れに身を任せ、巨人の番記者として経験してきたものを、放っておいていいものなのか。そんなはずはない。今、書き残しておかなくては後悔する時がきっと来る。 長嶋茂雄さんは、昭和49年10月14日午後5時、夕闇迫る後楽園球場で、 「巨人軍は永久に不滅です」 の名セリフを残し、ファンに惜しまれつつ、17年間の現役生活を39歳で終わらせた。 成績は、2186試合、2471安打。ホームランも444本。通算打率は3割5厘であった。首位打者6回。打点王5回。本塁打王2回。最優秀選手5回(日本シリーズでも4回)であったが、それ以上に、初の天覧試合のサヨナラホーマーなど、記憶に強烈に残るプレーを演じた。いつも観客のためを思いながらプレーしていた珍しい選手であった。 その年の11月「背番号90・長嶋茂雄巨人軍9代目監督」が誕生した。 だが、1年目の昭和50年は、47勝76敗7引分け、勝率3割8分2厘は、今でも最低記録だ。首位広島から離されること27ゲーム差。巨人軍では空前絶後の最下位スタートになってしまった。そして2年目は優勝してみせた。 優勝は2回したが、日本シリーズで勝つことはなく、6年目には、何とか3位Aクラスに踏み止まったものの、突然、解任されてしまった。 「成績が不本意であった。だから男としてのケジメをつけた」 記者会見では、虚勢を張って格好つけたが、腹の中は煮えくり返っていた。人生で味わう初めての挫折であり、屈辱でもあった。 それでも12年間も浪人生活をしてからの再登場は、颯爽としたもので、1回目では、なしえなかった日本一も2回果たした。プロ野球監督生活、通算15年間は、波乱万丈に満ちたもので、平成13年秋にピリオドを打った。 巨人軍専務取締役そして永久名誉監督でありながら、アテネ五輪野球日本代表監督に推薦された。長嶋さんも野球人生の集大成になると燃えに燃えていた。それが本番への5カ月前、3月4日朝、田園調布の自宅ベッドで、脳に異変が起きた。脳梗塞の発作だった。 一時は生命の危機さえささやかれたが、不死鳥・長嶋さんは奮然と立ち直った。その毎日は過酷なものだが、今、再起に向け死力を尽くしてリハビリに取り組んでいる。長嶋さんにメークミラクルが起きることを信じたい。 頑張れ! ミスター。そんな願いを込めて、これまでの長嶋さんとの40年にも及ぶ心の交流を書きたい。いや、書かなければいけない使命が、私にはあるようにさえ思えている。この本が少しでも長嶋さんの応援歌になれば、こんな嬉しいことはない。 26年前に、日刊スポーツ出版社から出した「巨人番記者三代」(絶版)の続編でもある。出版に当たりご協力頂いた関係各位には感謝の念でいっぱいだ。 平成16年 風薫る5月 |