冬の風物詩「高校サッカー」は、今大会もたくさんの涙とともに閉幕した。

 私も年末年始は大阪から都内へ出張し、主に近畿勢を担当。その中で一番印象的だったのは、東海大仰星(大阪)の中務(なかつか)雅之監督(34)の涙だった。過去最高成績の8強の壁を破り、初めて4強に進出。準々決勝では、前回大会王者でJ内定3人のスターを擁する東福岡を1-0で倒した。今大会の「台風の目」となった仰星。操っていたのは、中務監督だった。

 「エスパーなのかと思っちゃいました。監督のたった一言で、あんなにプレーって変わるんやって。みんなを見てて思ったんです」

 マネジャーの新里百音(もね)さん(3年)は驚いた表情で振り返った。勝利を収めた東福岡戦、0-0で折り返したハーフタイムのことだった。前半は押し込まれる展開。仰星側のチャンスはほとんどなく「何とかしのいだ」という印象だった。しかし、ハーフタイムに指揮官が選手にかけた言葉は意外なものだった。

 「いけるぞ、できてるぞ。やろうとしていたことができている。でも、もう少し積極的にいこう」

 新里さんはその言葉を聞いた時「『え、これで大丈夫なん?』って思いました。でも、前半終えてロッカー室に引き揚げてくる時、みんなの顔はちょっと焦っていたのに、監督の一言を聞いた後、全然違う顔になったんです。『俺らいける』って自信を持った顔に変わったんです」。確かに、前半から指揮官は何度も選手のプレーを拍手してたたえていた。試合前日に練習したことが少しでも体現された時、全てのプレーで褒めていた。

 後半。一気に仰星ペースになった。少しずつ、攻撃のペースもつかみ始めた。仰星イレブンの集中力は欠けることなく、どんどん高まっていった。新里さんは「監督ってすごい。全部計算通りなんや」と感じたという。結果、仰星が後半にセットプレーから先制して、逃げ切り勝利。優勝候補を倒す大金星を挙げた。

 初めての4強入りも、続く準決勝青森山田戦ではあと1歩届かず敗退。悲願の初優勝は後輩たちに託された。試合後、埼玉スタジアムの一室で監督会見が開かれた。淡々と敗因を語る中務監督。しかし、話が3年生のことに及ぶと一気に涙があふれ出した。

 「仰星で身につけたものをベースにこれからも歩んでくれたら」

 監督自身、全身全霊をかけた選手権だった。大阪代表となり、組み合わせが決定すると、すぐさま対戦の可能性がある学校の映像を取り寄せた。1回戦の相手藤枝明誠(静岡)から鹿島学園(茨城)富山第一、東福岡、青森山田…。生徒主体で1カ月前から分析を始めさせたが、どの順番でどの対戦カードの映像を見せたらいいかは中務監督が決めていた。

 前監督の中村顧問によると、昨年末に関東入りしてから「つかちゃん(中務監督)はほとんど寝ていない」という。例えば、東福岡戦に向けたミーティング。最初に見せた映像は東福岡の選手権初戦・東邦(愛知)とのものだった。次に見せたのが3回戦・鹿児島城西との映像。両チームの戦い方は対照的で、前線からプレスにいった東邦の方が東福岡を苦しめていた。

 中村顧問は「つかちゃんは2試合を通して見せることで、どうやったら王者・東福岡を倒せるのか生徒に考えさせたんやと思う」。さらに「その順番を考えるため、試行錯誤してミーティングの準備、練習の準備には朝5時くらいまでかかっている。6時には起きているやろし、大会通してほとんど寝ていない」。指揮官が入念に入念の準備を重ねた結果、ベスト4という躍進につながった。

 指導者の1歩を踏み出したのは関大を卒業してすぐだった。母校・東海大仰星のコーチになった。当時、高校生で中盤の主力だったG大阪DF藤春広輝を左サイドバックへコンバートしたのも中務監督。藤春は「中務先生がいなかったら、日本代表にもリオ五輪代表にもなれなかった」と話していた。

 会見で指揮官の涙を見た時、選手にも全ての思いが伝わっていることを確信した。厳しい言葉も掛けられた、練習も苦しかった。その時間が100%自分のためになっていることを選手は理解していた。だからこそ、東福岡戦のハーフタイム「いけるぞ」のたった一言で選手のプレーは変わることができた。熱い師弟の絆を感じた選手権だった。【小杉舞】

 ◆小杉舞(こすぎ・まい)1990年(平2)6月21日、奈良市生まれ。大阪教育大を卒業し、14年に大阪本社に入社。1年目の同年11月から西日本サッカー担当。担当はG大阪など関西クラブ。甲子園球場での売り子時代に培った体力は自信あり。