<第1部国立で輝いた男たち(2):浦和南松本暁司監督>

 国立決勝を成功に導いたのは、浦和南(埼玉)だった。関西最後の75年度大会を制し、首都圏に移転した76年度も優勝した。静岡学園(静岡)との激闘は、高校サッカーの魅力を大観衆に届け、高校生でも国立で高いレベルのプレーができることを日本中に見せつけた。監督だった松本暁司(ぎょうじ)氏(79)と2年生の時に優勝を経験して現在同校監督を務める野崎正治氏(53)が「聖地」誕生の瞬間を振り返る。

 浦和駅前の約束の場所に現れた松本は、79歳の今でも180センチ近い身長に、ピンと伸びた背筋。そして眼鏡の奥には、三十数年前と変わらない鋭い目つきがあった。その厳しい指導は有名で「当時は『鬼松』とか言われてね。そう言われるのは好きじゃなかったな」と笑った。「いつも怖い顔をしていたのは、相手のベンチに威圧感を与えるつもりだったんだ」と明かした。

 関西最後の75年度大会に田嶋幸三らを擁して優勝。経験者が多く残り、MF水沼貴史らが入学した76年度も優勝候補だった。初の首都圏開催で「取材は格段に増えた」と松本。移転の成否は、地元チームの活躍にかかる。高校サッカー関係者、テレビ局、そして地元ファン。人気チームへの重圧は大きかったはずだ。

 静岡学園との決勝戦を前に、松本は入念な準備をした。まず、会場に慣れさせること。試合開始4時間前の午前10時に国立入り。運営スタッフの許可を得て、選手らに2時間の自由な見学時間を与えた。お客さんが開門を待つゲート、設置されたテレビカメラ、スタンドと聖火台。ピッチを駆け回る前に、選手は競技場を「体験」した。

 釜本やペレ、ベッケンバウアーがプレーした国立。当時は高校生の試合など考えられなかった。テレビ局のPR効果で、大観衆は予想できた。選手が緊張することも。「でも、スタンドから自分たちがどう見られるか理解すれば、緊張もやわらぐ。前日の準決勝、国立で帝京に勝ったイメージも思い出してほしかった」と松本。2年生だった野崎は「自分たちがするのはショーではなく、サッカー。監督からも『観客はイモだと思え』と。全然緊張しなかった」と振り返った。

 「下見」の効果は絶大だった。異様な雰囲気に浮足立つ静学相手に開始1分で先制。浦和南の武器でもあるスピードを生かし圧倒。前半17分までに3-0とした。結果的にはドリブル主体の遅攻で5-4まで迫られ、松本も「自分の心臓の音が聞こえるようだった」と話した。それでも、最後まで平常心で戦えたのは準備のおかげだった。

 松本は「サッカーのとりこにしてくれたのは国立」と言う。その前身、神宮競技場でプレーした経験もあった。「神宮競技場の芝なんて、霜でどろどろ。それに比べれば、国立の枯れ芝もふかふかに感じた。センターサークルからでもシュートが決まると思った」。聖地の変遷を口にした。

 今年4月、野崎は浦和東から母校の浦和南に転任した。浦和東で日本代表GK川島永嗣らを育てた手腕に、名門復活が託された。今年、埼玉予選のベンチには、同校全盛期の赤のユニホームと、76年度大会決勝で野崎が着た背番号6のクリーム色のユニホームが飾られた。ベスト8で敗退したが「選手に『先輩は選手権で勝っているんだ』と分かってほしいし、あの舞台に行かせたい」と言う。

 頂へ再び。国立はなくなっても、名門の魂は受け継がれて行く。(敬称略)【高橋悟史】

 ◆松本暁司(まつもと・ぎょうじ)1934年(昭9)8月13日、埼玉県生まれ。浦和高-埼玉大から埼玉県教委に進み、GKとして活躍。日本代表にも選出された。63年に浦和市立南高創立と同時にサッカー部監督に就任。69年に永井良和を擁して史上初の高校3冠(選手権、総体、国体)を成し遂げると、この活躍が人気漫画「赤き血のイレブン」のモデルになった。同校で選手権優勝2回、総体優勝1回の成績を残すとともに、日本ユース代表監督なども歴任。