<第1部国立で輝いた男たち(8):清水東MF大榎克己>

 Jリーグ発足前、高校サッカーが日本の頂点だった時代があった。84年1月8日、帝京(東京)と清水東(静岡)という超人気チーム同士の決勝戦は、国立競技場に入りきれないファンが出るほどの異常人気。テレビで露出し、女性誌に特集が組まれるほどの社会現象だった。中盤の華麗なプレーで清水東の攻撃を指揮した大榎克己氏(48=清水ユース監督)が「聖地」への思いを語った。

 快晴の国立競技場、当日券が完売しても入場門には人があふれていた。主催する日本テレビは、急きょ会場の外に10台のテレビモニターを用意。国立に隣接する明治公園では、数百人がくぎ付けになった。高校サッカーの歴史でも「街頭テレビ」は唯一の珍事だ。

 「僕らは連覇がかかっていたし、帝京も人気があった。静岡から来た人が、会場に入れなくてデパートでテレビを見たという話を聞きました。高校生ですよ。信じられないですよね」

 前年の決勝、清水東は韮崎を4-1で破った。活躍した2年生MF大榎「カツミ」FW長谷川「ケンタ」DF堀池「タクミ」。後に「清水3羽がらす」と呼ばれる3人が残り、1年生FW武田修宏が加わった83年度も優勝候補筆頭。実力と人気を兼ね備えた、スーパー高校チームだった。

 「韮崎戦の先制点が1年間、日テレのスポーツニュースで使われた。自分の姿が毎晩流れる。10時45分の男、って呼ばれました。雑誌もすごかったな。セブンティーンやプチセブン、トシちゃん(田原俊彦)と並んで載るんですよ。バレンタインのチョコは段ボールに10箱来ましたから」

 首都圏開催スタートから8年、国立の決勝が定着して、人気は頂点に達していた。この年はラグビー大学選手権と日程が重なり、準決勝は駒沢開催。「国立は決勝だけ」というプレミア感が人気を高めた。それほど、国立は特別だった。

 「小学生の時にテレビで静岡学園の決勝を見て、国立が目標になった。今はいろいろあるけれど、あの時はなかった。海外もダイヤモンドサッカー(海外の試合を放送した当時唯一の番組)ぐらい。はっきり見えるのは国立だけだった」

 清水FCの大榎と長谷川と堀池は、ともに清水東に進学した。最後の選手権で鹿児島実、島原商、浦和市立、四中工と強豪を次々と撃破して進んだ決勝。大榎が帝京のマンマークを受け攻撃が機能せず、FW前田の一発で0-1と敗れた。

 「勝てると思っていたけれど、何もできなかった。悔しかった。でも、最高の国立と最悪の国立を知ったのは、いい経験。あの後も大学(早大)やヤマハ、清水でも何度も国立で試合をしたけれど、高校選手権は別物ですよ。観客もすごいし、雰囲気が特別だった」

 前年の大会キャッチフレーズは「燃え尽きるまでRUN!」。高校生の燃え尽き症候群が問題になった頃でもあった。打開策の1つがプロ化。Jリーグ発足前、清水サッカー生みの親、元静岡県サッカー協会理事長の堀田哲爾は「清水の頂点を高校からプロにする。あの高校の人気があるんだから、プロも成功する」と言った。チーム結成で集まったのも、この時の「3羽がらす」。高校サッカー人気が、Jリーグ成功の土台になった。

 「今はプロとか、海外とかある。クラブのユースチームも増えて、高校選手権も昔ほど特別ではなくなった。でも、今でも選手権に出たいという子はいる。高校の部活動もいい面があるし、選択肢が増えたのは素晴らしいことだと思う」

 ユース監督として同世代の選手を指導するだけに、今でも高校サッカーは身近な存在。今年も正月を楽しみにしている。最後の国立競技場での熱戦を-。(敬称略)【荻島弘一】

 ◆大榎克己(おおえのき・かつみ)1965年(昭40)4月3日、静岡県生まれ。清水FCから両河内中を経て清水東に進学し、高校選手権優勝、準優勝。早大からヤマハ発動機(現磐田)に進み、91年に結成された清水エスパルス入りした。96年ナビスコ杯、99年リーグ第2ステージ優勝などに貢献した。02年に引退し、04年から早大監督。08年に母校を大学選手権優勝に導き、同年から清水ユース監督。