【武漢(中国)4日】東アジア杯で日本代表に初招集されたG大阪FW倉田秋(26)が、代表定着を目指している。Jリーグ屈指の下部組織であるG大阪ジュニアユースから育った生え抜き。豊富な運動量が持ち味で、FWからボランチ、サイドバックまでこなす。各世代別代表だったが、トップでは結果を残せず、2度の期限付き移籍を経験。苦労をバネにA代表まで上り詰めたハリルジャパンの秘密兵器に迫った。

 今、憧れは現実となった。倉田は、昨季G大阪の3冠に貢献。豊富な運動量が必要な左サイドハーフとして、今季も21試合に出場している。無得点ながらハリルホジッチ監督に「運動量が多い」と評価され、26歳でようやく日本代表の座をつかみ取った。

 「ガンバでは、貴史(宇佐美)やハル(藤春)、丹羽ちゃんが呼ばれて。人のことは気にしないようにしてたけど、最初は『自分の方がいいのに』って悔しい思いがあった。でも特に貴史が3月、代表入ってすごく変わって。自分もその自信が必要だと思っていた」

 もともとは、エリート街道を突き進んできた。中1でG大阪のジュニアユースに入団。順調にユースに昇格し、各世代別代表にも選ばれてきた。

 「でも、俺は“世代別代表”やから。ジュニアユース時代は、2つ上に本田くん(ACミラン)家長くん(大宮)がいた。あまり、しゃべれなかったけどすごい存在。ユースでは、4つ下に貴史がいた。高3のとき、貴史は中3で飛び級昇格。天才と呼ばれていた。真司(香川=ドルトムント)、乾(フランクフルト)、清武(ハノーバー)とも同世代。周りが、世界で活躍しているのを見て、さらに上を目指すようになった」

 エリートが現実の厳しさを知ったのは、07年にトップ昇格した後だった。なかなか出場機会に恵まれず、10年千葉へ期限付き移籍した。

 「ここで試合出られへんかったら『サッカーやめたろかな』って思ってた。プレースタイル曲げたくなかった。でも、当時監督の江尻さん(千葉U-18監督)の練習がめちゃくちゃキツくて。真夏のキャンプが3部練習。(体感温度が)40度ぐらいの砂の坂道をダッシュする。もうプライドとか言ってられへん。とにかく運動量。最後まで走りきる体力をつけさせてもらった」

 さらに、11年にはC大阪へ期限付き移籍した。乾がその年の8月にドイツへ渡るまでともにプレー。清武や山口ら日本代表クラスのサッカーを肌で感じた。

 「人生の分岐点やった。A代表を意識しだしたのは、このとき。セレッソに移籍直後、当時もう結婚していた乾の家に泊めてもらっていた。奥さんにご飯作ってもらって。間近で代表で活躍する乾のことを見ていたのが大きかった。清武や蛍(山口)も代表に入りだして『代表』というものを身近に感じた。頑張れば自分も入れるって思ったから、当時(レビー)クルピ監督の攻撃のアイデアを全部吸収しようとした」

 腐らず努力を続けた結果だ。プロ入り8年たってA代表まではい上がってきた。

 「これでちょっとは真司に近づけたかもしれへんけど、追いついていない。ここで終われば意味がない。人のこと気にしないって言ってたけど、やっぱり焦りはあるし、考えないようにしているだけ。今大会は貴史と同じ左FWの可能性もある。自分が代表定着できるように、人より走って、人とは違うプレーの質を出していく」

 新・ハリルチルドレンとして、貪欲にその出番を待つ。【取材・構成=小杉舞】

 ◆倉田秋(くらた・しゅう)1988年(昭63)11月26日、大阪府高槻市生まれ。FCファルコン(高槻)からG大阪ジュニアユース、同ユースを経て、07年にトップ昇格。10年にJ2千葉、11年C大阪(当時J1)に期限付き移籍。12年からG大阪に復帰した。U-14(14歳以下)日本代表から各世代別代表を経験。172センチ、68キロ。