プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月17日付紙面を振り返ります。1997年の1面(東京版)はサッカー日本代表が初のW杯出場を決めました。

◇ ◇ ◇

<W杯アジア第3代表決定戦:日本3-2イラン>◇1997年11月16日◇ラルキン・スタジアム(マレーシア・ジョホールバル)◇観衆2万人

 日本がついに、W杯出場を決めた。長く苦しい戦いに、ようやくピリオドを打った。イランを下した。延長の末に3-2で出場権をもぎとった。赤道直下の街の夜空に日の丸が揺れた。歓喜の歌が響き渡った。中山が決めた。城も続いた。最後は岡野。延長後半13分、岡野の右足から放たれたVゴールは、苦しみ抜いた日本代表の姿そのものだった。勝った。W杯をつかんだ。何度も傷ついた。そのたびに立ち上がった。負けられない。フランスに行くまでは。あきらめられない。夢を実現させるまでは。スタンドの2万サポーターが、そして日本のだれもが勝利を願った。熱い思いがマレーシアに届いた。

 監督更迭、サポーター暴走、いろいろあった。あり過ぎた。しかし、岡田監督と選ばれた男たちは、すべての苦難に打ち勝って、栄光をつかんだ。日本サッカーの歴史が、いや日本スポーツ界の歴史が変わった。ありがとう岡野、ありがとう中山、城、岡田監督。そしてすべての選手たち。夢を現実に変えてくれたイレブンは来年6月、日本中の期待を背に世界に挑む。

 最後の力を振り絞って、歓喜の叫びを上げた。岡田監督の胸に、次々と選手が飛びついた。川口が、GKコーチのマリオと抱き合って泣いた。カズが北沢と肩をたたき合った。笑顔が、涙にかすんだ。

2万サポーターの歌にこたえるように、井原が大きく手を振った。カズが思い切り跳び上がった。待っていた勝利、待ち続けた瞬間。日本中のファンの目の前で、選手たちが喜びを爆発させた。

日本列島を揺らすほどの118分だった。「ドーハの悲劇」をしのぐドラマだった。先制点は、そのドーハのイラク戦でもゴールした中山だった。中田のパスを左足でゴール右スミに流し込んだ。「最後の最後に代表に呼ばれて、ゴールもできて……」。あの甲高い声がかすれた。ベンチに退いた後も、最後まで座ることはできなかった。

 後半1分には同点に追いつかれた。同14分には逆転ゴールを許した。カズと中山に代えて、呂比須と城がピッチに飛び出した。城の同点ゴールが生まれたのが同31分。それからが、まさに死闘だった。

 延長戦に入って最後の切り札、岡野が入る。FW5人を使う総力戦。疲れが見えるイランを圧倒的に攻めた。城が決定的なチャンスを外した。岡野が、GKと1対1でシュートを打てなかった。ゴール前の間接FKも決まらず、岡田監督はそのたびに頭を抱えた。「またか……」。これまでも、何度もあと一歩まで迫った。そのたびにはじき返されたアジアの高い壁。嫌なムードを、焦りを、すべてを吹き飛ばすように、イレブンは走った。

 延長後半5分、城と相手GKが激突した。城は立ち上がったが、視線が定まらない。相手もろっ骨あたりを押さえて顔をしかめた。両軍3人ずつ選手を交代させている。苦しくても、痛くても、逃げることはできなかった。戦いをやめることはできなかった。

 118分目、最後に岡野が決めた。長い長い戦いに終止符を打った。ドーハの悲劇を、長い日本サッカーの暗い歴史を岡野のシュートが振りはらった。逆転勝ちは昨年12月6日のアジア杯シリア戦以来Aマッチ27試合ぶり。精神的な強さを、サポーターに、日本のファンに見せつけた。中田は、相変わらずクールに「もっと早く決めてくれれば良かったのに」と冗談ぽく言った。城は「苦しかったけど、これからです」とフランスをにらんだ。

 頼もしいイレブンが日本の歴史をつくった。118分の激闘で、日本サッカーの夢が、ようやく実現した。

◇寄せ書き実るW杯フラッグ

 バックスタンド裏に大型の日の丸がはためいた。日本のサポーターがW杯への思いをこめた寄せ書き入りのフラッグだ。無数のブルーの紙テープも投げ込んだ。選手のウイニングランにフラッグをちぎれんばかりに振り回して健闘をたたえた。悲願のW杯出場に約2万人のサポーターは叫んだ。「ニッポン、ニッポン」。マレーシア・ラルキン・スタジアムは喜びの渦に包まれた。

 中立国でのアジア第3代表決定戦を日本のホームゲームに変えた。試合開始5時間前から約50台のツアーバスで乗り込んだ。3時間前には二重に競技場を取り囲んで開門を待った。地元警察700人が出動し警備に当たった。周辺の大混雑で開門が予定より15分早い6時15分に変わった。容赦ないブーイングでイラン代表を完全包囲した。

 「フランスへ行ける」。マレーシアの夜空に日本人サポーターの歓喜の声が響き渡った。

※記録と表記は当時のもの