絶対に負けられない戦いには苦難のバックボーンがある。日本は31日に18年W杯ロシア大会を懸けたアジア最終予選でオーストラリアと対戦。勝てば6大会連続出場が決まり、引き分け以下なら9月5日の最終戦サウジアラビア戦に持ち越される。日本はW杯を巡っては予選と本大会で8戦未勝利。連載「俺とオーストラリア」でライバルとの歴史をたどる。第1回は、W杯予選で初対戦した杉山隆一(76)。(敬称略)

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 「負けちまえー!」。やじを浴びながら、杉山はソウルスタジアムに立った。日本-オーストラリア戦には約1万人の観衆が詰めかけたが、ほとんどが韓国人。拍手はオーストラリアに向けられたものだった。煮えくりかえる思いをかみ殺していた。「国際試合のときは、カーッとなるとまだガキ。冷静にいないと、と言い聞かせていた。韓国のファンで、日本を応援する人はいなかった」。

 銅メダルを獲得した68年メキシコ五輪から1年。日本のサッカー熱は盛り上がっていた。「五輪はアマチュアの大会。ぼくらも、W杯が世界の最高の大会だと思っていた」。未来を開くための大会だった。このW杯1次予選で日本はアジア・オセアニア地区1組に入り、地元韓国を含めた3カ国による2回戦総当たりの集中開催で行われた。長沼監督が「勝つかどうかが、大きな比重を占める」と位置づけた初戦。前半を1-1で折り返したが、後半2失点で敗れた。

 相手は軒並み身長175センチ以上あり、試合前、ピッチに並んだだけで圧倒された。169センチの杉山も相手を見上げた。「重圧感があった。当時、上背があって当たりの強いプレーができたのは釜本と小城だけだった」。

 68年メキシコ五輪の得点王、釜本は肝炎のため大会を欠場した。過去5年間、決定力の高いエースが日本の戦術の中心だった。岡野コーチの指示で「全体で守り、全体で攻める」作戦に変更され、センターFWの代役には桑原楽が入った。釜本の欠場が決まってから約5カ月、必死に練習したが、杉山は「いくら一緒に練習していても、やっぱり一緒に試合に出ていないとダメ。ゲーム内容がちぐはぐだった」と振り返る。

 釜本との“あうんの呼吸”が、日本の生命線だった。杉山が左サイドをドリブルで駆け上がり、クロスを入れ、釜本がひたすらシュートを打つ。代表の全体練習の後は「日本サッカーの父」クラマー・コーチが付きっきりで、この練習を毎日200本。杉山は「クラマーさんを憎たらしく思う時もあった」というが、得点力が培われた。その時間が作り上げたホットラインを失った日本は、大会を通じて攻撃力を欠いていた。メキシコ五輪後、この大会を含めて釜本を欠いた国際試合では、2勝5分け10敗と苦しみ続けた。

 2年後、30歳の杉山は代表引退を表明した。周囲から慰留されたが、決意は固かった。「70分はプレーできるけど、あとの20分がきつくなった。90分できなければ代表ではないと考えた」。自分の信念があった。「日の丸を着た選手には、次の世代に夢を与える義務がある」。杉山の夢を後輩たちが引き継ぎ、97年のW杯初出場へとつながった。【保坂恭子】

 ◆杉山隆一(すぎやま・りゅういち)1941年(昭16)7月4日、静岡市清水区(旧清水市)生まれ。袖師中でサッカーを始め、清水東3年時に日本代表候補に初選出。明大を経て66年に三菱重工入り。64年東京五輪、68年メキシコ五輪に出場。71年に代表を引退し、73年に現役引退。JSL通算115試合40得点、国際Aマッチ56試合15得点。74年にヤマハ発動機の監督に就任し、87年から総監督。その後、磐田のスーパーバイザーを務める。現在は静岡県サッカー協会副会長。

 ◆ハリルジャパンの現状 FW大迫が右足首の靱帯(じんたい)損傷、FW本田が右ふくらはぎ肉離れを抱え、ともに所属クラブの公式戦から遠ざかっている。主力、特に海外組の状態は気がかりで、ともに実戦復帰したもののMF香川は左肩脱臼が完治したばかりで、MF長谷部は右膝の手術明け。指揮官は5日に「私が初来日してから最も難しい状況が今かもしれない」と漏らしている。