日本は31日にW杯を巡っては予選と本大会で8戦未勝利のオーストラリア戦を迎える。宿敵との歴史をたどる連載「俺とオーストラリア」の第2回は、70年メキシコ大会1次予選で夢を絶たれた松本育夫(75)。68年メキシコ五輪銅メダルメンバーで、現在は日本サッカー後援会理事長を務めている。

 アポロ11号が人類初の月面着陸に成功し、テレビでは「水戸黄門」と「8時だョ! 全員集合」が始まった。そんな48年前の試合を松本は肌で覚えていた。「当時はイエローカードもレッドカードもない時代で、オーストラリアの1対1の激しさ、闘争心はすごかった」。プレーは荒っぽく、6日前の第1戦で腹を蹴られた味方は欠場した。「パワーとスピードも違った。移民の多いオーストラリアには、ハンガリー系、ギリシャ系といったクラブチームがあり、代表は英国系のボールを奪ってから縦に速い攻撃でしたね」。

 このW杯1次予選は集中開催で行われ、地元韓国を含めた3カ国による2回戦総当たり。日本は1分け1敗でオーストラリアとの第2戦を迎えた。前半4分に先制したが、同39分に失点。27歳、右ウイングの松本は後半2本のシュートを外している。当時の紙面によるとシュート数は8対28。3倍以上を浴びた末に引き分け、予選敗退が決まった。ベンチでは長沼監督が吸いかけのたばこを投げ捨てた。銅メダルに輝いた68年メキシコ五輪で得点王の働きだったエース釜本が病気欠場する不運もあり、3度目の挑戦もW杯は遠かった。

 ただ代表を取り巻く環境は今とずいぶん異なる。「当時はみんな社員選手。手当もない。検見川(千葉)での合宿で朝食はめざしと生卵。おなかがすいて、夜は宿舎を抜け出し、駅前にギョーザを食べに行ったり。みんな持ち出しですよ。選手以外は、監督とコーチだけで、ユニホームは自分で洗い、けがも自分で治すしかない。プロなんてまだまだ先の時代でした」。

 松本は東洋工業(現広島)で自動車部品を管理する部署で働き、夕方から練習といった具合だった。代表は手弁当の名誉的な活動で、一方のオーストラリアはセミプロ。当時の紙面によると仕事を持ちながら、代表活動中に週給45ドルの手当がついたという。当時は1ドル360円の固定相場で、換算すると1万6200円。大卒初任給が平均3万2400円だった時代、2週間でそれを手にする相手とW杯を懸けて戦っていた。

 日本は64年東京五輪から世代交代が進まず、セミプロ化を進める他国と差が開きつつあった。指導者整備やプロリーグの発足を訴え続けた「日本サッカーの父」クラマーは、予選敗退を受け「今、日本のサッカーは危機にある」と指摘。メキシコ五輪銅メダルの威光では国際舞台を勝てず、この後、不遇の時代を迎える。松本は「メキシコ五輪でやり遂げた満足感があったし、今後新しいチームづくりになると聞いていた」とこの大会を最後に代表を退いた。日本が10度目の挑戦となった97年のアジア最終予選でW杯初出場を決めるまで、ここから四半世紀以上の時を費やすことになる。【押谷謙爾】

 ◆松本育夫(まつもと・いくお)1941年(昭16)11月3日、宇都宮市生まれ。宇都宮工から早大に進み、1年時に日本代表入り。68年メキシコ五輪で銅メダル獲得。東洋工業(現広島)では左ウイングとして日本リーグを4連覇し、76年から監督。79年のワールドユース日本代表監督や京都GM、川崎F監督を歴任。02年には地球環境(長野)を創部7カ月で全国高校選手権に導き、その後は鳥栖、栃木でも監督。09年にサッカー殿堂入り。現日本サッカー後援会理事長。