W杯ロシア大会出場を懸けた運命の一戦に向け、宿敵との歴史をたどる連載「俺とオーストラリア」の第3回の下は、ジーコジャパンでフィジカルコーチを務めた里内猛(60、現鹿島フィジカルコーチ)が、逆転負けを喫した真相に迫った。(敬称略)

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 1-0で迎えた後半39分、里内は準備運動をする控え選手らとともに、ピッチサイドで頭を抱えた。相手FWケーヒルのシュートがネットを揺らして同点とされ、ピッチ内では膝をついて落胆する選手の姿もあった。

 「1-1になったことで、気持ちがガーンと、すごく下がってしまった。ラスト6分までは筋書き通り。2002年にホスト国で16強入りしたこともあって、期待の大きさにオーストラリア戦は勝ち点3という声も聞こえていた。見込みは禁物というところが見え隠れしてしまった。皮算用はダブー。そういうところでもダメージがあった。最後は、じり貧の状態」

 その原因を大きく2つ挙げた。1つ目は直前の準備段階での誤算だった。福島のJヴィレッジでの国内合宿は気温30度弱での調整。6月のドイツの気温が30度近くになることを想定していた。一時解散後、本番に向けて乗り込んだドイツ・ボン合宿。史上初の8強以上を掲げた目標への腕試しとなったドイツ戦(レバークーゼン)では、FW高原直泰の2得点で先制。終盤に2失点して2-2の結果にも、本番への期待は大きく高まった。6月4日のマルタ戦(デュッセルドルフ)ではFW玉田圭司のゴールで1-0勝利。順調に見えたが、実情は違った。

 「Jビレッジで28度くらいの暑さでやっていたので、毛穴は開いていたはずなんです。でもドイツ戦は、めちゃくちゃ寒くて、マルタ戦は30度を超えるほどの高温だった。急激な環境変化に対応できていなく大会直前での発汗量が想定と違った」

 加えて主力にケガ人が続出した。ドイツ戦ではDF加地亮がシュバインシュタイガーの悪質なタックルにより、腓骨(ひこつ)筋を痛めた。FW柳沢敦も合宿中に内転筋の炎症を抱え、万全な状態ではなかった。

 「実は高原も内側側副靱帯(じんたい)を痛めていたんです。ジーコと相談して、練習量もちょっと軽めにしてコントロールした。日本は、じゃあ誰か代わりにっていう台所事情ではなかったのも事実。急激な環境変化、選手のアクシデントが、ちょっとネガティブな部分になってしまったところもあった」

 2つ目は、オーストラリアが繰り出してきたパワープレーへの苦手意識だった。ある程度、想定していたとはいえ、徹底されたロングボール。交代選手も次々に190センチ級の大男が投入された。前線に4枚並ぶほど徹底された高さは脅威だった。

 「あとで知った話ですけれど、向こうも『日本はパワープレーに弱いぞ』と分析していた。デカイやつに放り込んでくるサッカーに圧倒されてしまった。選手たちもそういうサッカーが嫌だ、得意じゃないという意識もあった。当時は日本国内では、あそこまで放り込んでくるサッカーの経験はない。体格的に対等に出来たのは中沢佑二くらい。パワープレーに屈したというのが正直なところ。試合終盤には、190センチの圧力でダメージを感じていた」

 W杯出場を懸けた31日、最終戦に格下のタイ戦を残しているオーストラリアは、日本戦では勝ち点1でも良いくらいの気持ちで臨むことが予想される。陣営は本番での躍進に向けて、ボールをしっかりつなぐサッカーを明言してもいる。だが、日本が先制すれば、パワープレーを駆使してくる可能性も十分ある。過去のW杯予選で7度対戦し勝利できていない相手への苦手意識も「カイザースラウテルンの悲劇」が起因となっている。【鎌田直秀】

 ◆里内猛(さとうち・たけし)1957年(昭32)1月11日、滋賀・守山市出身。水口高-大経大を経て、79年住友金属(現鹿島)入団。88年に現役引退。89年住友金属でコーチ就任し、01年まで鹿島。02年のC大阪後、03年から日本代表フィジカルコーチを務めた。07年には、なでしこリーグ千葉の監督。08年から川崎F、10年から大宮。11年にはロンドン五輪で4位となったU-23(23歳以下)日本代表フィジカルコーチ。12年から大宮、14年は仙台、15年から千葉、今季より鹿島に復帰。98年にJFA公認S級コーチ取得。現役時代はDF。168センチ。