「日本サッカーの父」が逝った。元日本代表コーチで日本サッカー界の発展に尽力したドイツ人指導者デットマール・クラマー氏が17日、ドイツ南部ライトインビンクルの自宅で死去した。90歳だった。死因は明らかにされていない。60年に来日し、日本代表のコーチに就任。64年東京五輪8強、68年メキシコ五輪では銅メダルに導いた。組織や指導法など残した5つの提言が、その後の日本サッカーの礎となった。

 クラマー氏の死を、日本サッカー界が悼んだ。今年6月に行われた日本リーグ発足50周年パーティーに出席できなかった際「体調がよくないらしい」という話は伝わっていた。それでも、日本にとっての大恩人が他界したショックは大きい。「今日の日本サッカーは、クラマーさんから始まった」と、日本協会の大仁邦弥会長は話した。

 指導者として、超一流だった。60年にコーチに就任すると代表選手たちにボールの蹴り方から教え、基本を植え付けた。64年東京五輪で8強進出に導いて日本を離れたが、その後も特別コーチとして指導。68年メキシコ五輪で銅メダルに輝いたのは「クラマーの息子たち」だった。

 もちろん、日本だけでなく母国ドイツで、そして世界中で手腕を発揮した。世界90カ国以上でサッカーを教え、Bミュンヘン監督として欧州チャンピオンズ杯(現欧州CL)連覇も達成した。指導者として栄光に包まれながらも常に日本のことを気にかけ、何度も来日しアドバイスした。「技術指導」だけではないクラマー氏の思いが、今の日本サッカーを形作った。

 64年東京五輪後に日本を離れる時、クラマー氏は5つの提言を残した。リーグ戦の重要性を説いたことが翌65年の日本リーグ創設につながった。当時、日本のスポーツ界はトーナメント戦が主流で、全国リーグという考えはなかった。サッカーの後にバレーやバスケなどが次々と日本リーグを創設。クラマー氏の考えは日本のスポーツ界にも大きな影響を残した。

 指導者育成や練習環境の整備、選手強化の方法など当時としては革新的なアイデアだった。50年以上たって当然のようになったが、クラマー氏の教えを受けた長沼健(故人)、岡野俊一郎両氏らが中心になって改革を進めてきたからこそ、サッカーは日本スポーツ界の先陣を切れたのだ。

 選手のプロ化、プロリーグ化も、その延長。Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎元日本協会会長は「人生そのものを教えてくれた恩師」と仰いだ。日本サッカーの礎を築いたからこそクラマー氏は多くの人に愛され「日本サッカーの父」と呼ばれた。その遺志を忘れず、さらに日本サッカーを発展させていくことが、最大の親孝行になる。

<東京五輪後のクラマー氏5つの提言と現状>

 (1)国際試合の経験を多く積むこと

→積極的な遠征やスポンサーの獲得などで試合数は急増した

 (2)高校から日本代表まで各2人のコーチを置くこと

→監督、コーチの他に多くのサポートスタッフが付き、環境を整えた

 (3)コーチ制度を導入すること 

→ライセンス制度導入によりSからDまでの公認コーチを誕生させた

 (4)リーグ戦を開催すること

→65年に日本リーグ発足。これをもとに93年にJリーグを誕生させた

 (5)芝生のグラウンドを数多くつくること

→小学校の校庭芝生化に取り組むなどで芝生のグラウンドを増やした