名波浩監督(42)率いるJ2磐田が、劇的に3季ぶりのJ1復帰を決めた。最終節で大分に勝利し、J1自動昇格の2位に入った。1点リードで迎えた後半45分に同点弾を許すも、ロスタイムにMF小林祐希(23)が執念の決勝ゴールを奪った。カリスマ性あふれる指揮官の下、かつての強豪が、98年フランスW杯日本代表でともに戦った井原監督が指揮を執る福岡の猛追をかわし「サッカー王国静岡」の威信を守った。

 「よくやった!」。次々と駆け寄る選手たちを抱きしめながら、名波監督は叫んだ。大分まで駆けつけたサポーター約700人の前で、現役時代の背番号と同じ7回、胴上げされた。「選手の成長と頼もしさを感じた。31人の勇者たちが、すばらしい仕事をした」とたたえた。

 後半45分、1-1に追いつかれた。嫌な記憶がよみがえった。昨季のJ1昇格プレーオフ準決勝山形戦。相手GKに決勝弾を許し、敗れた。「やっぱり、俺は持ってないな」。そんな思いとは裏腹にベンチ前から大声とジェスチャーで、指示を出し続けた。ロスタイム、小林のゴールが決まると、テクニカルエリアを飛び出して拳を握りしめた。

 昨年9月28日の初陣から422日目。悲願のJ1復帰をつかみ取った。監督になり、こだわったことは「プレーヤー目線」。解説者から監督に就任する際「選手時代、自分が嫌だと思ったことはしない」と決意した。外国人3選手には、8月末から9月、天皇杯の期間に約10日間の特別休暇を与えた。セリエAベネチアに在籍した経験を生かしていた。当時、代表に招集されなければ帰国できない状況で「そのストレスは大きかった」。海外でプレーをするつらさが分かっているからこその判断だった。

 一方で自身は追い込まれていた。戦う気持ちはあっても体がついていかず、高熱で練習を休んだこともあった。古傷の右ひざに2度もメスを入れた。サポーターの前に松葉づえ姿で出ることを拒んだが医師から許可が下りず、試合でも松葉づえを使った。9月23日の群馬戦を接戦で制した後には「吐きそう」と漏らしたこともあった。今月12日には父元一さん(享年76)を亡くした。精神的にも厳しい状況だった。

 清水のJ2降格が決まった今、指揮官には「サッカー王国静岡」のとりでとしての思いもあった。磐田のエンブレムにデザインされているのは、静岡の県鳥「サンコウチョウ」だ。「あれは磐田の鳥じゃなくて静岡の鳥なんだ」。今季から常にJ1を見据えて戦っていた。「J1にしがみついて、何十年もJ1でできるクラブにしたい」。磐田が第2期黄金期への第1歩を踏み出した。【保坂恭子】

 ◆ジュビロ磐田 前身は1972年(昭47)創部のヤマハ発動機サッカー部。92年からJFLに参加。93年からジュビロ磐田と改称。94年にJリーグ昇格。中山雅史、名波浩らを擁して97年に第2Sを初制覇し、年間王者にも輝いた。98年にはナビスコ杯優勝。99年にはアジア・クラブ選手権を制し、リーグ戦も2度目の年間王者に。02年はリーグ戦2ステージ連続優勝で初の完全優勝を飾った。03年の天皇杯優勝後はタイトルからは遠ざかり、13年に17位でJ2降格。「ジュビロ」はポルトガル語で「歓喜」の意味。