J1湘南ベルマーレが、YBCルヴァンカップ決勝に初進出し、横浜F・マリノスを下して優勝した。ベルマーレ平塚時代の1994年度(平6)に天皇杯を制したが、親会社のフジタが撤退し00年に湘南ベルマーレと改称し、市民クラブとして再出発して以降、J1リーグ戦を含めた国内3冠の一角を初めて獲得した。

湘南にとって今季は、前身の藤和不動産サッカー部が1968年(昭43)に創部してから50年の節目だった。1996年(平8)にベルマーレ平塚に入社して今年で23年目…湘南の歴史の半分近くの年月をともに歩んできた社員の遠藤さちえさんが、ニッカンスポーツコムの取材に応じ、湘南のここまでの歩み、クラブへの思いを語った。

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遠藤さんは、優勝を決めたピッチで選手、スタッフと喜びを分かち合った。ただ「メチャクチャうれしい」と満面の笑みで一言、喜びを口にした後は、報道各社の取材に応じる選手の脇につき、目を配った。

遠藤さんは高校時代、サッカー部でマネジャーを務め「プロのチームに入りたい」とJリーグ全クラブに履歴書を送り、電話した。湘南からは当初、ポジションはないと言われたが、卒業間近の96年1月、古前田充監督に代わって就任したトニーニョ・モウラ監督が、ブラジルから連れてくるスタッフ、選手の家の手配、家族のケアをするスタッフが必要になり、採用された。その後、99年にトップチームのマネジャー、01年からは16年にわたり広報を務め、Jリーグでも有数の名物広報としてクラブ内外で活躍。現在は営業の一員として、チームのスポンサーを探す毎日を送る。そんな遠藤さんにとっても、ルヴァン杯は初のビッグタイトルだった。

遠藤さんは営業として新たなチャレンジを続ける傍ら、クラブの50周年事業を担当し、創立50周年史「BELLMARE 50th MEMORIAL BOOK 1968-2018」を出版した。「クラブの誕生は奇跡だと思いましたし、その後のフジタ、平塚、そして存続危機…50年は全て挑戦の歴史で、チャレンジ精神がないと50年は迎えられていないと思います」と感慨深げに語った。

そして「やっぱり、忘れられないですよね」と語るのが、親会社のフジタが99年に経営から撤退するに至った、一連の存続危機だ。

遠藤さんが入社した当時、平塚は“湘南の暴れん坊”と呼ばれていた。入社前年の95年には、MF中田英寿が入団し、アジアカップウィナーズカップ(現在のアジア・チャンピオンズリーグに発展し解消)で優勝。1998年(平10)のワールドカップ(W杯)フランス大会には中田、GK小島伸幸、FW呂比須ワグナーが日本代表、DF洪明甫が韓国代表として出場した。

その輝かしい舞台の裏で、経営不振に陥り銀行の管理下にあったフジタは、同年秋に運営から撤退すると平塚に通告。それを受けてクラブは同11月27日に会見を開き、主力選手の放出を軸とした経営規模の縮小を発表した。同年には横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併されることが発表され、99年元日の天皇杯優勝をもって横浜Fは消滅した。

遠藤さん (フジタの撤退は)信じ難い感じでした。でも、親会社が本当にやむを得ず、撤退せざるを得ない状況になった時、フリューゲルスのように実際になくなることが起きたわけだから、ベルマーレでも当然それが起こるかも知れないという危機感が、ものすごくありました。私も入って、そんなにたっていない頃ですけど、本当に寝ても覚めても、そのことを考えて過ごしていたし、何とかしなければいけないというのは、ものすごく思っていました。

予算の大幅縮小により、主力選手の放出を余儀なくされて迎えた99年6月に、フジタは運営からの撤退を正式に表明。チームも第1ステージ3勝、第2ステージ1勝に終わりJ2降格が決定した。ただ、フジタが過去の損失金12億円、99年の赤字を処理してベルマーレ平塚を精算した上で、2億4000万円の運転資金を残したことで平塚は市民クラブ・湘南ベルマーレとして再出発できた。遠藤さんは撤退を余儀なくされたフジタの愛を感じたという。

遠藤さん (フジタが運転資金を残したのは)本当にすごいことだし、生みの親というか、ベルマーレにものすごい愛情を持っていてくださった証。それがあったから運営できたのもあるし、いろいろな方の何とかしなきゃという思い、サポーターの方1人1人も含め、それぞれが今、出来ることをやろうという感じでした。

99年は主力を放出し、下部組織から昇格して3年目の20歳のFW高田保則がエースとなり、その高田を残ったベテランが支えた。結果は年間4勝に終わりJ2に降格したが、忘れられないチームだという。

遠藤さん 99年はすごい若いチームになって結局、降格しましたけど、選手たちが見せた1試合、1試合は本当にすばらしい戦いだった。なかなか勝てなかったけれど“湘南スタイル”と呼ばれるようになった今のように、本当に最後まで諦めず、よく走り、とにかく戦った試合を見せてくれて。当時、私はマネジャーで、側で見ていたから、余計にそう思うのかも知れないですけど、あのシーズンを超えるシーズンは、ないんじゃないかと思うくらい。周りも必死、選手も必死…死に物狂いで何とかしようとしていたのは、忘れられないですね。選手も大変だったと思うんですけど、若手から急にエースと言われるようになった高田さんは「大変さを感じなかった。森山泰行さんや(浦和レッズの監督をした)堀孝史さんらベテラン選手が、若手に変なプレッシャーを与えないように盛り立て、勇気づけていた」と言ってくれました。確かに、思い返すと、そうだったなぁと。

次回は、市民クラブとして00年に再出発してから11年、J2で戦い続けた苦闘と、J1に復帰後も選手を引き抜かれ、J2との往復を繰り返す“エレベータークラブ”からの脱却を図る湘南が下した決断と未来を語る。【村上幸将】