Jリーグ屈指の敏腕スカウトで知られたガンバ大阪の二宮博氏(59)が、27年間一筋で在籍した同クラブを1月末で退職した。これまでメディアにはほとんど登場しなかった同氏が、人生の節目に日刊スポーツの取材に応じた。G大阪を人材の宝庫、日本一の組織にしたスカウトの極意とは何かを語った。

【取材・構成=横田和幸編集委員】

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Jリーグに深くかかわるほど、二宮氏の名前を知らない人はいない。江戸時代の思想家・二宮金治郎(尊徳)からついた愛称は「キンちゃん」。J元年の翌94年、当時32歳で愛媛の公立中学教員でサッカー部顧問だった二宮氏は、関係者に誘われ、G大阪のスカウトに異色の転職を図った。

在職27年間を3つの時代に分ければ、第1期はトップチームのスカウト時代。後に日本代表になるFW播戸竜二(現Jリーグ特任理事)を琴丘高(兵庫)から一本釣り。鵬翔高(宮崎)から02年釜山アジア大会で得点王になるFW中山悟志も獲得。主に無名高校、大学生を発掘する一方で、東福岡高のFW小島宏美ら人気競合選手も果敢に獲得した。

第2期は下部組織(アカデミー)のスカウト時代。自らの人脈で全国各地の有望な少年を探し当て、当時小学生だったMF家長昭博(現川崎フロンターレ)、FW宇佐美貴史やDF昌子源(ともに現G大阪)、FW鎌田大地(現アイントラハト・フランクフルト)、MF堂安律(現ビーレフェルト)らをジュニアユースへと入団させた。

第3期はアカデミー本部本部長などの要職で達成した強固な組織作り。遠隔地からの選手を受け入れるために地元私立高と提携し、選手寮を建設。下部組織からプロはもちろん、日本代表へ定期的に輩出し、16年にはJリーグ最優秀育成クラブ賞を受賞した中心人物となった。

「スカウト活動でよく、選手のどんな点を見るのですかと聞かれます。私は基本的に肩書や経歴を見ません。見たことで変な先入観が入ってはいけない。他人の意見に左右されず、自分の目で見ているかと自問します。サッカーは脚を使うが、頭と心と脚(実力)の3つがそろっているのが、最終的に獲得する基準になります」

播戸との出会いは、琴丘高3年の97年春だった。大阪の名門私立・北陽(現関大北陽)高の近畿大会視察に出向いた際、対戦相手の播戸に目が止まった。技術は高くなかったが、あふれ出る気迫や瞬発力。見た瞬間、心に響くものがあったという。

「いい選手だなと思いました。でも同じ学年にMF稲本潤一、新井場徹といったユースからの昇格組がいた。1年に何人も獲得できない。当時提示できたのは月10万円の練習生契約。本人には(稲本らを見て)なにくそと思うガッツがあったのです」

“なにくそ”精神は、実は二宮氏の根底にも流れていた。現役時代は中京大でプレーしたが実績はない。中学教員として、DF大森健作やMF福西崇史ら後のJリーガーを指導した経験があった程度。ただ、いろんな指導者、関係者に質問をぶつける好奇心、そこから派生する人脈が人一倍多かった。

「当時のJクラブには重鎮のスカウトがいて、私は間違いなく経歴や実力、年齢も下っぱ。それが国見からFW船越優蔵、GK都築龍太、東福岡からFW小島宏美を獲得できた。無名だった播戸が後に日本代表に入り、鹿島アントラーズの鈴木満さん(現取締役フットボールダイレクター)から『無名選手をスカウトして代表にまで行かせたのは、キンちゃんぐらいだよ』と言われたのが、大きな自信になった。そんな自分が有頂天になっていた時代もあったが、後で分かったのは、私がスカウトしたからではなく、彼らが努力したから成長があった。彼らのおかげで、今の私があると気付きました」

下部組織のスカウトになった際は、小学6年だったFW鎌田大地を愛媛から呼び、ジュニアユースの練習に参加させた。中学生に交じっても、プレーのやわらかさは際立っていたという。

「鎌田の将来性は最大限に感じました。大阪・岸和田市の祖母宅からジュニアユースの練習に通うと言ってくれ、入団にこぎつけた。結局はユースに上がれず、高校は東山(京都)に行くのですが、お父さんから当時『息子を取ってくれたのは、二宮さんですよ』と感謝の言葉に、ほっとしたのを覚えています」

ジュニアユースに在籍したMF本田圭佑がユースに昇格できないと分かれば、星稜(石川)に本田を推薦した。中学教員をしていた二宮氏は、高校への橋渡しは得意だった。

G大阪の歴代最高GKになった東口順昭もユースに上がれず、洛南高(京都)に進学。その際、二宮氏が進路指導の役目を担った。

MF井手口陽介はジュニアユース、ユース時代に何度かクラブを辞めそうになったが、そのたびに相談に乗った。スカウトの枠を超えた仕事だった。

「星稜の監督には、本田は石川県にはいないタイプでおもしろいと言っていただいた。ひょっとしたら、この出会いで本田が成功したのかもしれない。ここまでの選手になるとは、私も思っていない。ある意味、人との最高の巡り合わせに立ち会えたと思います」

二宮氏がスカウトしてきた少年、青年がG大阪をJリーグ屈指の人材の宝庫にし、アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)を筆頭に9個のタイトルを獲得するビッグクラブへと発展させた。その土台の一端を担ったのは間違いない。

今年の元日、天皇杯決勝はG大阪と川崎Fの対戦だった。NHK総合テレビの解説は、自らスカウトした播戸が務めていた。生放送を見ながら、試合の行方よりも「ちゃんと解説できるか、親のような立場で聞いていました」と笑う。

今月4日に59歳の誕生日を迎えた二宮氏は「このままG大阪にいてもよかった。でも最後の集大成となる仕事がしたい」と、昨秋頃に新たな挑戦を決意していた。ブランド品の買い取りや販売を行う「バリュエンスホールディングス」(東京、大阪にオフィス)に今月1日付で転職した。

実は同社は、01年に二宮氏がスカウトしてG大阪で3年間、プロ生活を送った嵜本晋輔氏(38)が社長を務める。Jリーガーが初めて社長となって株式上場した新進気鋭の会社で、20年8月期の売上高は連結で379億円。同社グループはアスリートやスポーツ界を支援する事業にも本腰を入れ、3年前から同社がG大阪のスポンサーになった。二宮氏がJリーグで培った経験や人脈を生かしやすい環境だと感じた。

「私がスカウトした元選手の会社に、再就職するとは思っていませんでした。嵜本社長のスポーツ界に貢献したい思いに、私は深く共鳴させてもらった。今後はその経験を生かしていきたい。ただ、私をここまで育ててもらったのはG大阪です。27年間、本当にありがとうございました。感謝の気持ちしかありません」

4月からは大阪府内の大学で講師として、スポーツビジネスや人材育成の授業も受け持つ予定だ。

座右の銘は「やらないで後悔するよりも、やって後悔した方が良い」。Jリーグが生んだ伝説のスカウトは、まだ歩みを止めるわけではない。

 

◆二宮博(にのみや・ひろし)1962年(昭37)2月4日、愛媛・西予市生まれ。愛媛・三瓶高、中京大を経て同県の公立中学保健体育教員に。94年G大阪スカウトへ転身し、強化部スカウト部長やアカデミー本部本部長、普及部部長など要職を歴任。趣味はスポーツ観戦

 

【取材後記】

記者がG大阪を担当していた97年秋、二宮さんがささやいた「(兵庫・)姫路市にエジミウソンみたいな高校生がおる。これは化けるかもしれん」という言葉が忘れられない。姫路市立琴丘高にいた、無名のFW播戸竜二のことだ。

エジミウソンとは96、97年、当時は柏レイソルに在籍し、2年間で54試合44得点と大暴れしたブラジル人FWで、二宮さんは無名の高校生とイメージを重ね合わせていた。

同年に開催された大阪開催の「なみはや国体」。兵庫県選抜にいた播戸を確かめに会場に足を運んだ。同僚には加地亮もいた。試合は千葉県選抜に0-1で敗れたが、前線でかき回す播戸の動きは際立った。その後、同選手はG大阪入団を果たすことになる。

播戸が現役を引退後、何度も口にした「二宮さんにスカウトしてもらえなかったら、今の自分はなかった」という言葉を思い出す。播戸のように全員がプロで大成したわけではない。それでも無限大の可能性に手を差し伸べ、成功した選手、成功しなかった選手とも向き合った二宮さん。Jリーグの発展に有形無形で貢献した27年間だった。