68年メキシコ五輪サッカー銅メダリスト八重樫茂生(やえがし・しげお)氏が、2日午後1時10分、脳梗塞のため、東京・多摩市の病院で亡くなった。78歳だった。東京五輪(64年)8強、メキシコ五輪では3位と、日本代表主将としてチームをけん引した。メキシコ大会では初戦で負傷し、以降はグラウンド外でチームを鼓舞した伝説のキャプテンで、05年には日本サッカー殿堂入りした。

 日本サッカー発展に尽力した伝説のキャプテンが、永眠した。ピッチ上ではみんなが恐れる鬼主将で、ピッチを離れると、温かい相談役だった。メキシコ五輪日本代表の中心だった八重樫氏が脳梗塞に倒れた。

 日本を世界レベルに導くため、先頭に立って日本代表を引っ張った。日本サッカーの父・クラマー氏がドイツから初来日した直後の代表合宿時に「ケガ防止のため、練習後は足を温めなさい」とイレブンに指示した。

 しかし猛練習後、疲労回復のため、はだしで生活する選手が多くクラマー氏の指示に不満続出。八重樫氏は「頭で理解できなくても、我々のために言ってくれたはず。サッカーがうまくなるためだ。みんな我慢しよう」と、練習後率先して靴下をはき続けた。それを見たクラマー氏は迷わず、八重樫氏を主将に任命したという。

 主将になり、そのカリスマは輝きを増した。35歳で迎えたメキシコ五輪。初戦ナイジェリア戦で相手のタックルに右ひざ内側靱帯(じんたい)を断裂。寝返りを打っただけで痛みで目が覚めるほどの重傷だった。当然、2戦目からピッチには立てない。

 八重樫氏は、チームのため何ができるかを考えた。今と違って当時は試合後、各選手が自分のユニホームは自分で手洗いした時代。八重樫氏は松葉づえをつきながら、全18人のユニホームを1人で洗った。

 準々決勝でフランスに勝った夜、みんなの分を手洗いしていたら、23歳のレギュラーDF山口が風呂場に現れた。「先輩、僕もやります」。「お前の仕事は、準決勝のために休むことだ。早く休め!」と怒鳴りつけた。「たまたま通りかかったら、そんな会話が聞こえてきた。銅メダルを取ったのは八重樫の表に出ない努力が大きかった」。当時代表コーチだった岡野俊一郎氏(元日本協会会長)は振り返る。

 自分のことより、日本サッカーのことを先に考えた永遠のキャプテン。天国でも、日本サッカーを見守るに、違いない。【盧載鎭】