オッギーのOh!Olympic
荻島弘一編集委員が日々の話題、トピックスを取り上げる社会派コラム。これまでの取 材経験を絡め、批評や感じたことを鋭く切り込む。

◆荻島弘一(おぎしま・ひろかず)1960年(昭35)9月22日、東京都生まれ。84年に入社し、整理部を経てスポーツ部。五輪、サッカー などを取材し、96年からデスクとなる。出版社編集長を経て、05年に編集委員として現場の取材に戻る。
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変化への対応力…驚くべき葛西の22年間

 2本目の大ジャンプを終えた葛西紀明のもとに、メダルを確信した選手たちが駆け寄った。これからの日本ジャンプ界を担う若手に祝福される姿は感動的だった。と同時に葛西が「レジェンド」と呼ばれる理由が分かった。41歳の実績は確かにすごい。しかし、「レジェンド」である最大の理由は「他の選手に尊敬されている」ということだ。

 40歳を超える選手は葛西だけではない。五輪実績で葛西を上回る選手はたくさんいる。それでも、これほど尊敬されている選手はいないのだろう。それが日本の若手選手や他国選手の祝福に表れていた。若手は自分の成績以上に先輩、葛西の銀メダルを喜んだ。若手も、海外勢も、誰もが喜ぶメダル獲得。だからこそ、「レジェンド」なのだ。

 最初に出た五輪は92年アルベールビル大会。以来22年間、五輪に出続けた。驚くのは、競技がジャンプだということ。用具と技術の進歩で、夏季大会競技とは比べものにならないスピードで進化、変化している競技だ。ルールも目まぐるしく変わる。それに対応し続けた22年。ジャンプという競技が、7大会連続出場の偉業をさらに輝かせる。

 92年アルベールビル大会の開幕1カ月前まで、葛西はスキー板を並行にするクラシックスタイルだった。五輪直前でV字スタイルに変更。五輪本番ではノーマルヒル31位、ラージヒル26位に終わり「うまく板が開かない」と話した。今大会は、ほとんどが最初からV字で始めた選手。クラシックスタイル経験者は、数えるほどしかいない。

 98年長野大会後には、スキー板の規定が変わる。身長+80センチが、身長の146%以下になった。さらに、スーツの規定も変わった。ゆとり幅がなくなり、素材も空気を通すものへと変化した。その後も細かく、次々と変わるルール。競技を続けるには、変化に対応することが必要だった。

 長野大会直後、ジャンプのルール変更は「身長の低い日本人に不利」と言われた。実際は、169センチのマリシュ(ポーランド)や172センチのアマン(スイス)らが活躍し「日本バッシング」は被害妄想に近かったことが分かった。それらは「飛びすぎ防止」だった。V字ジャンプなど技術の進歩で飛行距離が伸びれば伸びるほど、安全性を求めて板やスーツが規制される。葛西の22年間は、そういう時代だった。

 遠くへ飛ぶために何でもやった。体を鍛え、技術を習得した。自らを実験台に研究し尽くした。しかし、理想のジャンプに近づくたびに、ルールが変わる。再びそれに合ったジャンプを求める。果てしなく続く追いかけっこを、競技人生をかけてやってきた。尊敬されるのは、そんな努力が知られているからだ。

 72年札幌大会で銀メダルに輝いた金野昭次のような「カミソリサッツ(鋭い踏み切り)」で知られ、スキー板の間に顔が出るほどの前傾姿勢から「カミカゼ」と呼ばれた。そして「レジェンド」になった。競技終了後、取材記者1人1人を抱きしめて感謝を伝えたという。普通なら考えられないような行動が自然にできるのも、周囲がそれを受け止めるのも、葛西ならでは。誰からも愛され、尊敬されるからこそだ。




日本のメダル数

金メダル
1
銀メダル
4
銅メダル
3

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