[ 2014年2月3日9時3分

 紙面から ]<連載:浅田真央

 悲願女王へのラストダンス第4回>

 日本時間11年12月9日早朝、浅田真央はシカゴから飛び立った日本行きの航空機の機内にいた。引き裂かれそうな心を占めていたのは、母匡子さんの姿。「自分の帰りを待っていてくれる」。そう信じて。

 一報は8日。9日に開幕するGPファイナルに備えて、カナダ・ケベックにいた。関係者から電話が鳴ったのは早朝。名古屋市内で入院していた母の容体が悪化したと伝えられた。「帰らなきゃ」。日本へ一刻も早く。試合の欠場を一瞬は迷ったが、心はすぐに決した。経由地のシカゴでは何度も名古屋に電話した。危篤状態で病と闘う母。米国と日本の約1万キロの距離が恨めしかった。

 機上にいた日本時間9日早朝、肝硬変のため48歳で母は逝った。数時間後、成田空港に到着した浅田に父敏治さんから届いたメール。「ママは頑張れなかった」。涙が止まらなくなった。病院に着いて安らかに眠る母に、何度も「真央だよ!」と叫んだ。だが、その目は開くことはなかった。

 深い悲しみの中、ただ、歩みは止めなかった。それが母との約束だった。バンクーバー五輪直後、母は「私は引退する」と娘に告げた。それまでは必ず練習に顔を出し、世界中の試合に同行した。それが、突然の引退宣言-。すべては病の重さを悟った母が、自分がもしいなくなっても、娘に自立して歩んでほしいと考えたから。この数年は体調が悪いと入院し、回復すると退院の繰り返しだった。最後の半年は、娘は名古屋を離れるときはいつも「これが最後かも」と覚悟していた。そして、母と決めていた。「自分の夢に向かって、やるべき事をしっかりやる」と。

 通夜、告別式を親族で終えた12日、所属事務所を通じて23日に開幕する全日本選手権に出場することを発表した。翌13日には、約1週間ぶりにリンクに戻った。迎えた25日、フリー「愛の夢」を滑り終えた浅田は天を仰ぎ、そっと目をつぶった。優勝-。「自分もすごくうれしいですし、(母も)喜んでいる」と、目が少しだけ潤んだ。大会中、1度も口にしなかった「母」という言葉。言えば心が揺らぐ心身に耐え、母との約束をしっかり果たした。

 ただ、この優勝で出場を決めた12年3月の世界選手権の結果が、浅田に競技人生で初めて「引退」を考えさせることになったのだった。【阿部健吾】(つづく)