[ 2014年2月4日9時23分

 紙面から ]<連載:浅田真央

 悲願女王へのラストダンス第5回>

 「やめる」「もう嫌だ」。浅田真央がフィギュアスケートをやめたいと思っていた。5歳で始めてから、ただの1度もそんな感情は抱かなかった。12年の春先、それほど体も心も憔悴(しょうすい)していた…。

 11年12月に最愛の母を亡くした後も、浅田は休まなかった。直後の全日本選手権では優勝、12年の年明けも休んだのは元日だけで2日から練習を再開、2月には米国で4大陸選手権に出場。標高1800メートルの高地での大会は、空気抵抗の少なさでスピードが増す勢いを利用し、3大会ぶりにトリプルアクセルも解禁。SP、フリーとも回転不足だったが、手応えがあった。

 佐藤コーチに師事して1年半。目指す「流れで跳ぶジャンプ」に手応えを感じていた。跳ぶ前と跳んだ後にスピードの差がないジャンプが佐藤流で、安定性に加え、出来栄え点にも影響する。だから、フランス・ニースで開催された3月の世界選手権では結果が出ると信じていた。そして、そこに落とし穴があった。

 南フランスの快晴のビーチと対照的に、フランスでの浅田の表情は常に曇っていた。到着後から試合までトリプルアクセルがまったく決まらない。「なんで調子が上がらないんだろう…」。原因不明の不振に、口をとがらせた。結局、佐藤コーチに直談判して挑んだ試合ではSPは2回転半に、フリーは1回転半に。練習含めて56回も挑戦し、成功は1度もなし。順位は前年大会と同じ6位だが、手応えが霧散した。「いままで何をやっていたのかな…」。

 帰国直後、姉舞さんに伝えた。「スケートをやめたい」。抑えていた母の死の悲しみも、次の目標を失ったことであふれた。もともと「すぐ忘れること」が長所でも短所でもある。「試合で負けると残念な気持ちになるけど、次の試合で喜んで、それで忘れてしまう」。そんな性格の浅田が、どうしても忘れることができない。目標を見失い、リンクに行きたくないと、初めて思った。

 そんな競技人生で最もつらい時期、それを救ったのは家族の力だった。(つづく)