[ 2014年2月16日9時13分

 紙面から ]金メダルに輝いた羽生は恥ずかしげに日の丸を広げる(撮影・井上学)<ソチ五輪:フィギュアスケート>◇14日◇男子フリー

 100年の歴史を動かした。ソチ五輪フィギュアスケート男子シングルで、羽生結弦(19=ANA)が日本男子初の金メダルを獲得した。ショートプログラム(SP)に続き、フリーも1位で滑り、合計280・09点で優勝した。競技が始まった1908年ロンドン大会から106年(24大会目)。欧米以外で初の金メダリストとなり、延べ29人の日本人が挑んだ先の頂点に立った。東日本大震災から復興途上の仙台市を離れる涙の決断をし、カナダに渡って約2年。最高の結果で恩返しのメダルを届けた。

 1人だけだ、たった1人だけ。氷の上の小さな表彰台。滑っているより少し遠くが見渡せるその真ん中に、一礼をした羽生は、軽やかに脚を乗せた。「五輪の金メダリストは1人だけしかいないんだ」。当たり前のことが新鮮に感じる。たった数十センチ高い位置でも、そこは世界の頂点に立った男しか許されない景色。いま、そこに自分がいる。

 羽生

 日本の皆さん、世界中で応援してくれる皆さん、何千、何万の思いを背負ってここに立てた。すごくうれしい。恩返しができたんじゃないかな。

 ミスが続いたフリーの演技。悔しさで充満していた心を、その眺めがほぐしていく。心地よかった。「やったんだ」。ほほ笑みを絶やさない。それは、あの小さな部屋での涙の先にあったほほ笑みだった。

 「本当は仙台にいたかった」。12年5月、さらなる成長のため、カナダ・トロントに練習拠点を移した。関係者によって、レールは敷かれていた。金妍児を育てたオーサー・コーチの元で学ぶ-。非凡だからこそ、名伯楽に託したい。その親心を理解しながらも、決して自分が望んだ道ではなかった。もう流れは止められなかった。

 出発の2カ月前、世界選手権が開催されたフランスから帰国すると、仙台では誰にも会わなかった。「自分は裏切り者なんじゃないか」。お世話になった人への、震災から立ち直ろうとする故郷へのうしろめたさ-。

 自らも被災者だった。震災の時、スケート靴が脱げずにリンクにひざをついて逃げた。4日間は家族4人が避難所暮らし。畳1畳に毛布1枚の生活も味わい、「生活で精いっぱいなのに、なんでスケート…。やめようかな」とまで思った。60以上ものショーが練習代わり。その最中、500通のファンレターに返事を書いた。「僕が、本当は支えられていたんだな」と心に染みた。だからこそ、離れることは裏切りのように感じられた。

 4歳から通ったアイスリンク仙台。出発直前、あいさつに行った。「いってきます」の短い言葉。それが限界だった。終えるとそのまま、靴の刃を研磨してくれる隣の店へ。その奥の小さな部屋で泣き崩れた。長く、悲しい時間。「僕は行きたくないんだ…」。

 それでも旅立ちの時はくる。母と2人、カナダへ。アパートでの2人暮らしで、地下鉄を乗り継ぎ練習場へ通う日々。ぜんそく対策のマスクをつけると「変な人に見られる」。レストランでは、隣席の団体客の高額レシートを支払わされそうになった。差別的視線に、友人もいない異国は冷たい。「英語もできない。いちいちストレス。こんなんでよかったのか」。ただ、進むしか道はなかった。

 迎えた五輪シーズン。「今の自分にしかできないことを表現したかった」とフリーの選曲は、震災があった2季前と同じ「ロミオとジュリエット」だった。ささげたのは復興する故郷。最高の舞台で、2季前から成長した自分を見せられたら、それが「恩返し」だと思ったから。

 その五輪の舞台は、甘くはなかった。前日のSPでは飼いならした独特の雰囲気が、フリーでは暴れ出した。緊張に体は硬直した。冒頭の4回転サルコーは、スピードに欠いて転倒。続く4回転トーループは完璧に決めたが、容易な3回転フリップで両手をつく。「金は遠ざかったな」。失望感に、何とか踏ん張っての後半は「足が重い」「体力もきつい」。転倒で体力を削られ、演技後10秒以上も立ち上がれなかった。

 「金はダメだな…」。その後、次の滑走だったチャンが立て続けのミス。前日SPで史上初の100点超えを果たした貯金が生きる。チャンの得点が下回り、残りは2人。取材エリアのテレビで、その時を待った。最終滑走者が演技を終えて優勝が決まると、「オーマイガッ!」。驚きと悔しさが混在し、忘れていた歓喜は表彰台で実感した。「感謝」が去来した。

 そして、まだ恩返しは十分ではない。「メダリストになれたからこそ、震災復興のためにできることを。ここからがスタート」と思いは先に。支えてくれたすべての人へ、歩む王者の道すべてをささげていく。

 「19歳でまだまだ若い。次の五輪も頑張ろうと思います」。また次の夢舞台でも、少し高い表彰台のてっぺんから、同じ光景を眺めてみせる。今度は心の底からの歓喜と、変わらぬ感謝を胸に。【阿部健吾】<羽生結弦(はにゅう・ゆづる)アラカルト>

 ▼生まれ

 1994年(平6)12月7日、宮城県仙台市

 ▼サイズ

 身長171センチ、体重52キロ

 ▼競技歴

 4歳から姉の影響でスケートを始める。08年に初出場した全日本選手権で、出場選手中最年少ながら8位に入り注目される。11年ロシア杯でGP初優勝。12年世界選手権では銅メダルを獲得。12、13年全日本選手権優勝。優勝した13年GPファイナルではSPの世界最高得点99・84点をマークした

 ▼由来

 結弦の由来は「弓の弦を結ぶように凜(りん)とした生き方をしてほしい」と両親が名付けた。愛称は「ユヅ」

 ▼英才教育

 仙台では小学生時から荒川静香、鈴木明子と一緒に練習。当時指導した都築コーチは「かなりレベルの高いことを要求した。『絶対に世界で1番になるんだよ』と植え付けた」

 ▼虎の穴

 高校3年で仙台市からカナダ・トロントに移住。10年バンクーバー五輪金メダルの金妍児(韓国)を育てたオーサー・コーチに師事。年間運営費が数億円にもなる民間運営の高級スポーツクラブ「クリケットクラブ」が拠点

 ▼プーさん

 練習リンクには必ずくまのプーさんのティッシュ箱を持参。緩い顔で「見ると落ち着く」との理由。五輪はロゴや商標の扱いにうるさく「寂しいけど、自重した」。選手村で留守番しているという

 ▼プルシェンコ

 02年ソルトレークシティー五輪を見て憧れる。髪をマッシュルームカットにし、自らのサインもキノコを模したものを発案

 ▼野球

 広島カープの前田健太のファン。トロントでは練習の合間にキャッチボールをすることも。「投球フォームはジャンプに共通する部分がある」と話したこともある