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特別企画 The wish is ─アスリートを支えるコーチの戦い─

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苅部俊二監督(法政大) RIVAL ~為末大が引き継ぐ先駆者たちの思い~

ズバ抜けていた運動能力と努力する能力

 自由な環境の中にあるのは、本当は厳しさなんだ─。
 法大陸上部に代々受け継がれているのは、この精神なのかもしれない。練習は常に自由な雰囲気。そこには選手たちの笑顔もあった。だが、その中で自分自身としっかり向き合い、努力をした者だけがトップにたどり着ける。苅部俊二監督は今、自身の経験を踏まえて学生たちにそう伝えているのだろう。

笑顔を交えながら、インタビューに答える苅部俊二監督(2007年7月5日)
笑顔を交えながら、インタビューに答える苅部俊二監督(2007年7月5日)

 苅部監督が初めて為末大に会ったのは、94年だった。広島で開催されたアジア大会、男子主将を務めていた苅部監督ら日本代表選手に「広島の未来のアスリート」代表として花束を渡した学生の中に、為末がいた。

 「中学記録を出したのも見ていて、すごくいいものを持っている選手だと思いました。法政にきてくれないかな、という思いは当時から持ってましたよ」。

 思いは結実する。苅部監督は法大卒業後も、多摩にあるグラウンドで練習をしていた。そこに中学、高校時代に確かな実績を残していた為末が入学してきた。だが、大学入学後は記録が伸び悩む。

 「法政は基本的に自由な環境で練習をやらせている。それは、昔も今も同じです。だから為末もここを選んだのかもしれない。ただ、“自由”というのは自分で考えて動かないといけないということ。先生がすべてメニューを組んでくれる高校時代とはガラっと環境が変わるので、記録が思うように伸びずに苦しんでいたようでした。一緒に練習していた僕や斉藤(嘉彦、バルセロナ五輪400メートルハードル代表)にコテンパンにやられていましたから。ただ、為末は運動能力がずば抜けていた。ジャンプひとつにしても、ぼくらにはできないような野性的な動きをする。さらに、努力する能力もあった。だから必ずトップにいけると思っていました」。

 為末は陸上部の仲間がいるときは一緒に楽しく練習をしていたが、オフの日には1人グラウンドに出て、厳しいトレーニングをしていた。人前では倒れて吐くような練習はしなかった。弱音を吐くこともなかった。ただ、悩んでいるときは、当時一緒に練習をしていたOBたちに口癖のように聞いていた。「どうやったら足、速くなりますか?」。

 「なかなか、これだ、って答えを出せないことを聞いてくるんですよ。400メートルハードルはいろんな攻め方がある。僕は走力で攻めるタイプだったから、とにかく速く走ることを考えていた。為末に直接話をしなくても、練習を通じて彼は見ていたと思う。そうやって学んでいたと思います」。

 苅部監督と斉藤、そして山崎一彦が、日本の400メートルハードルを世界レベルに押し上げた。前半型の山崎、イーブンの苅部、後半型の斉藤とタイプはバラバラ。だが互いに切磋琢磨(せっさたくま)し、刺激を与え合っていた。3人の引退後に為末時代が到来。国内には為末のライバルとなる存在がいなかった。

 「ライバルがいることは、いい刺激だった。自分も特定の指導者をおかずにやってきたので、どうやったら強くなれるのか、いつも自分で考えていた。山崎、斉藤から教わることもあったし、一緒に練習している為末から教えられることもあった。ライバルは指導者なんです。同じ種目にライバルがいなかった為末にとっては、年齢や種目は違うけど末続慎吾や同級生だった川畑伸吾(シドニー五輪100メートル代表)がいい刺激になっていたと思います」。

 400メートルハードルは「経験種目」という。様々なレースパターンがあり、それは経験を通してでしかわからない。若くして大成する選手が少ない種目なのだという。

 「僕も自己記録を出したのは28歳くらいのときですから。為末は、高校時代に1度トップに上り詰めてから一時期低迷したときがあった。でも、そこからもう1度自分自身を見つめて、作り直して、そして世界のトップにたどり着いている。それが彼のすごいところなんです」。

日本選手権で見せた熟練したレース運び

練習開始前、世界陸上男子400メートル日本代表の金丸祐三(右)と話す
練習開始前、世界陸上男子400メートル日本代表の金丸祐三(右)と話す苅部監督(2007年7月5日)

 29歳になった為末のレール運びにも変化があった、と苅部監督は感じている。6月30日の日本選手権決勝。若手の成長株・成迫健児とともに10台目のハードルを並んで跳び越えると、最後の直線で粘る成迫を振り切った。

 「熟練したレース運びができるようになった、と思いました。これまではどちらかというと、前半スピードに乗るレースをしていた。意地もあったと思うけど、最後に成迫を抜き返しましたから。あれは経験のなせる業ですよ。成迫はまだまだ若いな、と思いました。厳しい環境の中でやってきた、その経験は大きいということを改めて感じました」。

 ようやく出てきたライバルを振り切って優勝。為末が目指すのは8月の世界陸上大阪大会、そして北京五輪でのメダルだ。

 「地元開催は注目度も違うし、地の利もある。それを自分のパワーに変えてほしい。大阪でやる意味を考えると、選手たちがたくさんチャンスをもらえる。とても意味があることだと思います。為末にとってはここからの1年が集大成になるでしょう。今まで積み重ねてきたものすべてを出して充実したレースをしてくれれば、おのずと結果はついてくるはず。やりきったぞ、と思えるレースを両方でしてほしいと思ってます」。

 苅部監督は為末を「うやらましい」という。

 「僕が夢描いていたことを全部、実現してますから。世界大会でのメダル、プロ第1号、陸上をメジャーにする活動。力及ばずで僕にはできなかったことを、引き継いでくれている感じかな。東京・丸の内でのイベントのように、多くの人に陸上を身近に感じてもらい、トップ選手があこがれの存在になることで、陸上をする子供たちが増えるかもしれないし、きついというイメージだけじゃないものになるかもしれない。昔から為末にはいろいろ話をしてきたから、ちょっとは僕の影響もあるのかな? 後輩はよく先輩を見ているものだし。僕も現役時代に雑誌に辛口でコラムを書いて、おしかりを受けたこともある。こういう活動はマイナス面がないわけじゃないけど、陸上界のためにも意味のあることだと思う。だから、為末にも続けて欲しいですね」。

 そして400メートルハードルという競技への思いをこう語った。

 「先輩たちの思いは、若手が引き継がなくてはいけない。僕らもそうだった。スタートはゼロじゃないんだ。彼らのゴールが僕たちのスタート。僕らのゴールが為末のスタートだった。為末のゴールは次の世代のスタート。そうやってエンドレスで継承されていく。それが400メートルハードルという競技なんですね」。

苅部 俊二 (かるべ・しゅんじ)

1969年5月8日、横浜市生まれ。横浜市立南高-法大と進む。卒業後は富士通に就職し、のちに筑波大学大学院修士課程修了。現役時代はアトランタ、シドニー五輪に出場。アトランタ五輪ではマイルリレーで入賞の快挙を成し遂げる。01年に母校法大の専任講師に就任。現在は文学部心理学科准教授で、陸上部監督。