ホーム > 特集企画 The wish is > 平井 伯昌コーチ
一番端に設置された低酸素コースで、北島康介(24=コカ・コーラ)は50メートルを1分のインターバルで泳いでいた。傍らには、ストップウオッチを手にした平井伯昌コーチ(43)。JISSの地下一階にある競泳用プールは、ほどよい緊張感と熱気に包まれていた。2008年北京五輪の前哨戦ともいわれる世界水泳までは1カ月を切っていた。アテネ五輪の後、世界の舞台で勝っていない北島だが、平井コーチは「心配ない」という表情だった。
「康介は100あれば100出せる選手。あとはレース当日にどれだけいい刺激を入れてあげられるか。大丈夫。今のところ、いい感じできているよ」。
平井コーチのこの言葉を証明するように、北島は3日に行われた日本短水路選手権で、50、200メートルで自身の持つ日本記録を更新。100メートルと合わせて3冠に輝いた。
北島は今季、高地トレーニングで徹底的に体を鍛え直した。平井コーチはその過程で「北島復活」の手応えを感じていた。
「去年の秋からこの春にかけては、この5、6年で一番練習はキツかったと思う。それくらいのことをやっても、康介は立ち向かってくる感じがあった。だから、これでいけんるんじゃないかと思った」。
アテネ五輪(04年)で2冠を達成してから、北島は苦しい時期を過ごしてきた。国内では敵なしだったはずが、05年、06年の全日本選手権で敗れた。世界記録もライバルのブレンダン・ハンセン(米国)に塗り替えられた。平井コーチは当時をこう振り返る。
「この2年はうまくトレーニングができなかった。試合での集中力もなかった。そんな中で僕自身も、康介に対して自信を持ってやれていなかったのかもしれないし、逃げていたのかもしれない」。
平井コーチが「逃げていたのかも」と振り返るのは、アテネで2冠を達成した翌日の出来事のことだ。平井コーチは北島にこう告げた。「これでリセットだ」と。
「五輪を目指そう、金メダルを取るんだぞと言い続けて、コーチが選手をけん引していくというその意味で、僕の役目はひとつ終わった。次に康介が北京を目指すならば、これからは対等だぞ、と。そうでないと続かないんじゃないかと思った。だからこれで一応、リセットだ、と康介にそう話して日本へ戻ったんです」。
しかし、その後の北島は結果が出ずに苦しんだ。それは平井コーチも同じだった。そんな2人の転機となったのは、昨年5月の平井コーチの誕生日。これまでは「プール以外のことは干渉しない」(平井コーチ)関係だったが、北島が恩師の誕生日会を企画したのだ。散々飲んだあと、北島はこう切り出した。「先生、一言お願いします」。平井コーチは、北島に向かって話し出した。
「康介も負けて苦しいかもしれない。でも、俺も、北島康介のコーチとして、すごく苦しいんだ」。
北島とは対等だと思うからこそ出た、平井コーチの本音だった。この誕生日会の後、北島の平井コーチへの接し方が変わった。水泳に対しても今までとは違った、積極的な取り組み方をするようになったのだ。平井コーチには「水泳を楽しんでいる」ようにも映った。苦しい時期を越え、再び泳ぐことの楽しさを思い出した北島。アテネ後は「自分でやれ、と少し突っぱねていた」という北島との関係も少しずつ変化してきた。
「小さいころは“指導者”、20代に入れば自分の“理解者”“パートナー”が必要になってくるんだと思う」。
「指導者」からお互いをより理解し、ともに歩む「パートナー」へ-。10年の歳月を経て、少しずつ変わった二人の関係。しかし、決して変わらないものもあった。それは「北京五輪で勝つ」という想いだ。再び世界の頂点に立つために、世界水泳は大きな指針になると平井コーチは考えている。
「康介本人が五輪に向けて『俺は、できるんだ』という自信を取り戻してほしい。五輪の前哨戦と思っている。今、ハンセンとどれだけ勝負ができるかは来年に向けた指針になるはずだから」。
日本短水路選手権で3冠を達成した北島は「これで自信を持って世界選手権に臨める」と話した。しかし同時に「まだ北京五輪で勝負できる位置にはいない」とも。ただ、平井コーチはこう言う。
「今の康介は、これまでのいいところも伸ばしつつ、足りなかったところも伸びている。魅力がどんどん増している」。
失いかけた自信を取り戻し、さらに進化する北島。ライバルに奪われた、世界一の座を取り戻すまで、北島と、平井コーチの戦いは終わることがない。五輪イヤー前年。すでに勝負は始まっている。
1963年東京都出身。6歳の時に「このままでは肥満児になる」と言われたことがきっかけで、東京スイミングセンターで水泳を始める。早稲田高校、早稲田大学で水泳部に所属。卒業後はかつて通っていた東京SCに就職し、インストラクターとなる。2000年シドニー五輪、04年アテネ五輪の競泳日本代表コーチ。今回の世界水泳には、東京SCから北島康介、中村礼子、桜井裕司、上田春佳、伊藤真の5選手が出場する。