プレーバック日刊スポーツ! 過去の8月31日付紙面を振り返ります。

 先日幕を閉じたリオデジャネイロ五輪。銀メダルを獲得した陸上男子400メートルリレーの興奮はいまだ覚めやらぬといったところです。近年の日本短距離の成長ぶりには目を見張るものがありますが、それも過去の積み重ねがあったからこそ。

 2003年8月、末続慎吾が世界陸上の200メートルで銅メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。末続は間違いなく今日の短距離界の礎を築き、また、歴史の扉をこじ開けた1人と言えるでしょう。

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<世界陸上>◇8月29日(日本時間30日)◇サンドニ・フランス競技場◇男子200メートル決勝

 パリで歴史的快挙が達成された。男子200メートルの末続慎吾(23=ミズノ)が、銅メダルを獲得した。両足をそろえる独特のスタート姿勢を審判に注意されて出遅れたが、ラスト30メートルからの驚異的な粘りで20秒38でフィニッシュ。4位のキャンベル(英国)を100分の1秒、距離にして10センチかわして表彰台に立った。男子短距離種目では世界選手権、五輪を通じて日本人初のメダルで、アテネ五輪代表にも内定。次は100メートル9秒台、そして金メダルの夢を追う。

 パリの夜空に末続の絶叫が響き渡る。「ウォーーッ!」。高野コーチの腕に飛び込み、雄たけびを上げた。涙が止まらない。ウイニングランのために用意した日の丸がクシャクシャになったが、興奮で気付かなかった。日本人には無理といわれた短距離種目(100、200、400メートル)、夢にまで見たメダルが今、手中にある。1912年(明45)ストックホルム五輪に三島弥彦が出場以来91年目。日本人初の快挙だ。ほほえましい光景に国境を越えた、万雷の拍手が沸き起こった。

 栄光のゴールに横一線でなだれ込む。勝負はまれに見る混戦。メダルの行方は競技場大画面の速報掲示に委ねられた。1位カペル、2位パットン。だが、3位のところで画面が止まった。写真判定-。1分以上待たされた。「生きた心地がしませんでした。でも、観客の人がお前が3番だって言ってくれて、本当かよって…」。心臓が口から飛び出しそうだった。その時間が、末続には何十分、何時間にも感じられた。

 4位キャンベルに100分の1秒競り勝った。約10センチの差だった。天と地を分けたのは握り拳程度のわずかな距離。「1回じゃ信じられないんで、何回も(掲示を)見ました。手の震えが止まりません」。脳裏に浮かんだのは東海大キャンパスの坂道。雨の日も風の日も自転車に乗った高野コーチを追って走り込んだ。「頭がショートして意識がなくなるんです。(メダルは)血と涙の結晶ですね」。走るたびに吐いた。練習過多で胃腸を痛めたこともある。勝利の女神を振り向かせたのは、壮絶な練習だ。

 熊本・阿蘇郡で生まれ育った。イノシシのいる裏山を走り回り、祖父のつくるイノシシ鍋が大好物だった。実家の目の前には「伝説のちびっ子公園」がある。タッ、タッ、タッ…。午後8時すぎ、真っ暗な公園に足音が響き始める。中学生時代の末続だった。走るのが好きで好きでたまらなかった。学校から帰ると必ず2時間の走り込み。つらくないか? 両親の問いかけにも「やらされてるんじゃない。やりたくてやってるんだよ」と答えたという。好きだから耐えられる。辛さがあるから喜びも大きい。競技に取り組む姿勢は少年時代から一貫している。

 夢の20秒間。そのスタートに考えられないアクシデントもあった。両足をそろえる独特のスタイルを、審判に違反と見なされた。「1次予選から何も言われてないのに何でだろう? でも、ファイナルだからこんなこともあるかなって。影響はありありでしたけど」。ルールブック上も問題があるとは思えない。すい星のように現れた東洋のスプリンターには、海外メディアも強い関心を示していた。

 普通なら動揺してもおかしくない。だが、末続は世界舞台の決勝、それだけでも異常な空間で逆境を跳ね返した。本気度120%の走りは途中で左足をけいれんさせたが、屈しなかった。「3年前に父(陽一郎さん)を亡くしました。ショックを受けてましたけど、そこを乗り越えて強くなりました」と母和子さん。今回の遠征にはこっそり父の写真を忍ばせていた。レース後、末続は真っ先にこう言った。「父さん、母さん、ありがとう」。

 スタート反応は0秒176で8人中7番目だった。だが、最後は暴れ馬のような追い込みでブロンズに手を伸ばした。手に入れたのはそれだけではない。アテネ五輪代表に内定した。「伊東浩司さん、高野さんのおかげでファイナルまでの道はできていた。ここからは自分で切り開いて行きます」と末続。花の都パリに咲いた大輪の花は、興奮の中でもう前に進み始めていた。

<末続慎吾(すえつぐ・しんご)>

 ◆経歴 1980年(昭55)6月2日、熊本県生まれ。91年東京大会で高野進(現コーチ)が400メートル7位に入賞するのを見て陸上を始める。九州学院高から高野コーチの誘いで東海大へ。今春ミズノ入り。

 ◆タイトル 高校時代は1、3年で国体100メートルを制覇。00年シドニー五輪200メートル準決勝2組8位、01年エドモントン大会準決勝2組6位。今年の日本選手権で200メートル20秒03の日本新記録。100と合わせ79年豊田敏夫以来24年ぶりの2冠。

 ◆なんば 今年からフォームのヒントに江戸時代の古武術「なんば」を取り入れた。イメージの世界だが、手足の動作はてっぽう柱を叩く力士の要領。腿を高く上げず、すり足で回転を速くすることで、前に出る推進力が増す。飛脚や忍者の走り方に似ている。

 ◆為末・末続パーティー 400メートル障害の為末大(大阪ガス)と大の仲良しで、パーティーを開くこともある。前回エドモントン大会で為末が銅メダルを獲得するとホテルのロビーで1人号泣した。

 ◆へん平足 走ることで鍛えられる足底筋が盛り上がり、いわゆる土踏まずのアーチ部分が消えた。接地時のクッションは少なくなるが、その分、反発力が強くなり、速いピッチにつながっている。

 ◆トリコロール靴 パリでの大会に合わせ、青、赤、白のシューズを作製。末続の活躍に、10月から「末続モデル」の市販も決定した。靴裏のピン配列は通常より1列多い3列。重量も約140グラムと超軽量タイプ。

<日本人スプリンターの挑戦史>

 ◆初挑戦 12年ストックホルム五輪の男子100、200メートルに三島弥彦が出場し、ともに予選落ちした。

 ◆暁の超特急 32年ロサンゼルス五輪男子100メートルで「60メートルまでなら世界一」と評された吉岡隆徳が6位入賞を果たした。

 ◆ロケットスタート 吉岡以降の約半世紀で、予選の壁を破ったのは飯島秀雄。64年東京五輪、68年メキシコ五輪と連続で100メートル準決勝進出を決めた。その後、走力を見込まれプロ野球のロッテに入団した。

 ◆90年代の躍進 93年世界選手権シュツットガルト大会100メートルで井上悟が、世界大会では飯島以来25年ぶりに準決勝進出。日本陸連が世界トップ選手の走りを科学的に解析するなどの努力が実り始める。

 ◆朝原、伊東の登場 96年アトランタ五輪100メートルで朝原宣治、同200メートルで伊東浩司が決勝まであと一歩に迫った。朝原はその後準決勝の常連に。伊東は98年100メートルで10秒00をマーク。00年シドニー五輪は100、200両種目で準決勝に進んだ。

 <アジア人の五輪、世界選手権陸上短距離のメダル>

 1900年パリ五輪男子200メートルで、アジアから初参加のインド人、ノーマン・プリチャードが銀メダルを獲得している。その後、プリチャードはハリウッドの映画俳優として活躍した。末続のメダルは103年ぶりになる。

 ※記録と表記は当時のもの