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米国チーム変遷史

 ドリームチーム誕生のきっかけは1972年ミュンヘン五輪での敗北だった。米国代表は、決勝でソ連に逆転負けし、史上初めて金メダルを逃した。さらに88年ソウル五輪では屈辱の銅メダル、90年世界選手権でも3位に終わった。バスケットボール発祥の地であり、バスケットボール大国として君臨する米国にとって金メダル獲得は至上命令だった。89年に国際バスケットボール連盟 (FIBA)が、プロ選手の国際的な大会への出場を認めると、米協会は92年のバルセロナ五輪にNBAの選手を派遣することを決定した。  ※文、表中の年齢、所属チームは当時のものです。

五輪
バルセロナ五輪(1992年)
アトランタ五輪(1996年)
シドニー五輪(2000年)
アテネ五輪五輪(2004年)
世界選手権
第12回世界選手権(1994年、トロント)
第13回世界選手権(1998年、アテネ)
第14回世界選手権(2002年、インディアナポリス)
バルセロナ五輪(1992年)
開催地出場成績
バルセロナ(スペイン)12か国優勝
監督
チャック・デーリー(ニュージャージー・ネッツ)
出場選手年齢所属
マジックジョンソン32元ロサンゼルス・レーカーズ
マイケル・ジョーダン 29 シカゴ・ブルズ
パトリック・ユーイング 29 ニューヨーク・ニックス
クリス・マリーン 28 ゴールデンステート・ウォリアーズ
ラリー・バード 34 ボストン・セルティックス
カール・マローン 28 ユタ・ジャズ
チャールズ・バークレー 29 フィラデルフィア・76ers
ジョン・ストックトン 30 ユタ・ジャズ
デビッド・ロビンソン 26 サンアントニオ・スパーズ
スコッティ・ピッペン 26 シカゴ・ブルズ
クライド・ドレクスラー 29 ポートランド・トレイルブレーザーズ
クリスチャン・レイトナー 22 デューク大

 マジック、ジョーダンらが五輪に出場

 初めてNBAの選手をそろえたバルセロナ五輪の米国代表(クリスチャン・レイトナーは大学生)。このチームを「最高のドリームチーム」という関係者は多い。91年にHIV感染を理由に引退表明をしていたマジック・ジョンソン、マジックのライバルだったラリー・バード、さらには“神様”マイケル・ジョーダンらそうそうたるスター選手がそろった。バルセロナ五輪から4年後の96年に「NBA史上の偉大な50人」が発表されたが、このチームの12人のうち10人が選出された。

 何もかもが桁違いだった。スペインへはチャーター機2機で入国。「試合に集中できないし、家族が一緒じゃなきゃいやだ」と選手村への入村を拒否し、新築の豪華ホテルを丸ごと借り切って滞在した。そのホテルの建設費用もNBAが全額負担した。五輪期間中にもかかわらずゴルフや海水浴を楽しんだ。対戦相手の選手は、試合前に米国代表チームに写真撮影やサインを求めた。もはやゲームというよりはショーだった。

 スーパースターをそろえたチームは負けるはずがなかった。プレーもシーズン中ほどの力を出さなくても圧勝できた。相手チームに花を持たせ、攻撃もわりと自由にさせた。ケガをしたジョン・ストックトンを除き、選手は均等に出場し、均等に得点を挙げた。それでも予選から決勝までの全8試合で100点ゲームを達成。平均得点117点に対して、平均失点は73点。決勝のクロアチア戦も117-85で圧勝した。

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第12回世界選手権(1994年)
開催地出場成績
トロント(カナダ)16チーム優勝
監督
ドン・ネルソン(ゴールデンステート・ウォリアーズ)
出場選手年齢所属
ジョー・デュマース 31 デトロイト・ピストンズ
マーク・プライス 30 クリーブランド・キャバリアーズ
デリック・コールマン 27 ニュージャージー・ネッツ
ショーン・ケンプ 24 シアトル・スーパーソニックス
スティーブ・スミス 25 マイアミ・ヒート
ダン・マーリー 28 フェニックス・サンズ
レジー・ミラー 28 インディアナ・ペーサーズ
ケビン・ジョンソン 28 フェニックス・サンズ
ドミニク・ウィルキンス 34 ボストン・セルティックス
シャキール・オニール 22 オーランド・マジック
アロンゾ・モーニング 24 シャーロット・ホーネッツ
ラリー・ジョンソン 25 シャーロット・ホーネッツ

大会MVPはシャック

 「ドリームチーム2」と呼ばれる94年世界選手権の米国代表にはシャキール・オニール、ラリー・ジョンソン、アロンゾ・モーニング、ショーン・ケンプといった当時売り出し中の若手が多かったことが特徴だ。実力的には初代ドリームチームに選ばれてもおかしくなかったアイザイア・トーマス(当時ピストンズ)は候補に入ったものの、NBAの試合中に右アキレスけんを断裂し、最終的な代表からはもれた。

 予選リーグ初戦のスペイン戦で115-100と思わぬ苦戦を強いられたが、2戦目の中国戦は132―77で圧勝。132点という得点は、ドリームチーム1がバルセロナ五輪で記録した最多得点127点(対ブラジル、リトアニア戦)を上回るものだった。さらに決勝リーグのプエルトリコ戦では134点をあげて記録を更新。準決勝のギリシャ戦は97ー58と初めて100得点に届かなかったが、危なげなく決勝に進出した。

 決勝ではロシアと対戦。ドリームチーム2の名にふさわしくダンクシュート、ブロックショットを連発してチーム最高得点の137―91で圧勝。米国に8年ぶり3度目の世界選手権金メダルをもたらした。またMVPにはシャキール・オニールが選出された。

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アトランタ五輪(1996年)
開催地出場成績
アトランタ(米国)12チーム優勝
監督
レニー・ウィルキン(アトランタ・ホークス)
出場選手年齢所属
チャールズ・バークレー 33 フェニックス・サンズ
デビッド・ロビンソン 30 サンアントニオ・スパーズ
スコッティ・ピッペン 30 シカゴ・ブルズ
レジー・ミラー 30 インディアナ・ペーサーズ
ジョン・ストックトン 34 ユタ・ジャズ
グラント・ヒル 23 デトロイト・ピストンズ
アンファニー・ハーダウェイ 24 オーランド・マジック
ミッチ・リッチモンド 31 サクラメント・キングズ
カール・マローン 33 ユタ・ジャズ
シャキール・オニール 24 オーランド・マジック
ゲーリー・ペイトン 28 シアトル・スーパーソニックス
アキーム・オラジュワン 33 ヒューストン・ロケッツ

 地元五輪で金メダル獲得

 地元開催となる米アトランタ五輪に、米国は「ドリームチーム3」と呼ばれる12人で挑んだ。初代ドリームチームに参加した選手からはチャールズ・バークレー、ジョン・ストックトン、カール・マローンら5人が選ばれ、94年の世界選手権金メダルメンバーからもレジー・ミラー、シャキール・オニールの2人が選出された。さらにナイジェリア出身で93年に米国籍を取得したアキーム・オラジュワンも代表入りした。

 ドリームチームの試合には平均で3万人以上が観戦に訪れ、試合も8戦全勝。決勝ではユーゴスラビアを95-69で下して金メダルを獲得した。しかしバルセロナ大会のドリームチーム1ほど相手を圧倒したわけではなかった。1試合の平均得点を比較するとドリーム1の117点に対し、ドリーム2は102点。失点もドリーム1の70点に対して74点。ドリーム1は全試合で100得点をマークしたが、今回は半分の4試合だけだった。 レニー・ウィルキン監督は「92年のチームよりも強くなったが、外国もそれ以上に速いスピードで強くなっている。もう大学生のチームでは外国には勝てない」と大会を振り返った。

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第13回世界選手権(1998年)
開催地出場成績
アテネ(ギリシャ) 16チーム 3位

 労使問題でNBA選手を派遣できず

 当初はNBAから12人を選び「ドリームチーム4」を結成していたが、NBAの各チームオーナー側と選手側との間で労使問題が発生。シーズン終了の6月に、チーム側があらゆるNBA関連のバスケットボール施設に選手を立ち入らせないロックアウトの措置をとった。結局、この対立は99年2月まで続くことになる。この結果、代表には大学やCBAといったリーグの選手が選出されることになった。

 米国は予選でリトアニアに、決勝リーグでロシアにそれぞれ2点差で敗れ、最終結果はは3位に終わった(優勝はユーゴスラビア、準優勝はロシア)。

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シドニー五輪(2000年)
開催地出場成績
シドニー(豪州) 12チーム優勝
監督
ルディ・トムジャノビッチ(ヒューストン・ロケッツ)
出場選手年齢所属
スティーブ・スミス 31 ポートランド・トレイルブレーザーズ
ジェーソン・キッド 27 フェニックス・サンズ
アラン・ヒューストン 29 ニューヨーク・ニックス
アロンゾ・モーニング 30 マイアミ・ヒート
ティム・ハーダウェイ 34 マイアミ・ヒート
ビンス・カーター 23 トロント・ラプターズ
ケビン・ガーネット 25 ミネソタ・ティンバーウルブズ
ヴィン・ベイカー 28 シアトル・スーパーソニックス
レイ・アレン 25 ミルウォーキー・バックス
アントニオ・マクダイス 26 デンバー・ナゲッツ
ゲーリー・ペイトン 32 シアトル・スーパーソニックス
シャリーフ・アブドゥル=ラヒム 23 バンクーバー・グリズリーズ

 苦戦の末に金メダル獲得

 4年ぶりにNBA選手で組織された米国代表だが、NBAでの優勝経験者やMVP受賞者がおらず「ドリームチーム」と呼ぶには物足りない選手編成となった。その一因として、99-00年シーズンのNBA王者レーカーズの主力選手シャキール・オニールやコービー・ブライアント、さらにはリーグで最も人気のある選手の1人であるアレン・アイバーソンといったスーパースターが私的な事情や健康上の理由などで代表辞退したことがあげられる。

 それでもケビン・ガーネット、ジェーソン・キッド、アラン・ヒューストンといったNBAを代表する選手が選出された。

 大会では薄氷を踏む勝利も多かった。予選リーグでは中国に47点差、イタリアに32点差をつけ順調なスタートを切ったものの、3戦目のリトアニア戦は85―76と9点差の辛勝。五輪で初めて後半にリードを許し冷や汗をかいた。さらにフランスには92年バルセロナ大会以降最多タイとなる94失点を喫した。米国の五輪での90点以上の失点は、モントリオール大会でのプエルトリコ戦の94失点と旧ユーゴスラビア戦の93失点の2試合だけで、通算3度目の屈辱となった。決勝トーナメントでも苦戦を強いられた。準々決勝ロシア戦では開始早々に2―12の劣勢に立たされる場面もあった。15点差で勝ちはしたが、この試合の総得点は85点に終わった。準決勝では予選リーグで苦戦したリトアニアと再戦し85―83。2点差の勝利はNBA選手が初参加した92年バルセロナ大会からの最少得点差で、試合終了間際にリトアニアの選手が放った3点シュートが決まっていれば歴史的敗北を喫するところだった。決勝はフランスに85-75で勝ったが、このチームには興奮も驚きも、圧倒的なテクニックも、何もなかった。バルセロナ五輪で選手たちが満面の笑みをたたえて表彰台に上ったのとは対照的に、ビンス・カーターが「この優勝への道のりは、本当に簡単じゃなかった」と涙を見せたのが、今大会の戦いぶりを象徴していた。

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第14回世界選手権(2002年)
開催地出場成績
インディアナポリス(米国) 16チーム 6位
監督
ジョージ・カール(ミルウォーキー・バックス)
出場選手年齢所属
マイケル・フィンリー 29 ダラス・マーベリックス
バロン・デービス 22 ニューオーリンズ・ホーネッツ
アンドレ・ミラー 26 ロサンゼルス・クリッパーズ
ジャーメイン・オニール 23 インディアナ・ペーサーズ
アントニオ・デイビス 33 トロント・ラプターズ
ポール・ピアス 24 ボストン・セルティックス
レジー・ミラー 37 インディアナ・ペーサーズ
ショーン・マリオン 24 フェニックス・サンズ
ジェイ・ウィリアムズ 20 シカゴ・ブルズ
ベン・ウォレス 27 デトロイト・ピストンズ
エルトン・ブランド 23 ロサンゼルス・クリッパーズ
レイフ・ラフレンツ 26 ダラス・マーベリックス

 地元開催の大会で屈辱の6位

 地元の米インディアナポリス開催で優勝を狙いNBA選手で構成したが、屈辱の6位という成績に終わった。

 その大きな要因にNBAの国際化が挙げられる。この年のドラフト全体1位の姚明(ロケッツ)は中国。01-02年シーズンのNBA新人王に輝いたガソル(グリズリーズ)はスペイン。キングズの主力選手として活躍するストヤコビッチはユーゴスラビアの選手。米国が本気になって勝とうとしても、リーグMVPのティム・ダンカンや、シャキール・オニール、トレイシー・マグレディ、ジェイソン・キッド、コービー・ブライアントといった一流選手が参加しなければ勝利は難しい。 ショーン・マリオン、ジャーメイン・オニールら有力選手は選出されたが、このチームはドリームチームとは呼べないメンバー構成となった。

 大会では4連勝で迎えた予選リーグ最終戦のアルゼンチンに80-87で敗北。これはNBA選手を送り込むようになったバルセロナ五輪以降、米国にとって初の屈辱となった。決勝トーナメント初戦でもユーゴスラビアに78-81で逆転負け。この時点で、米国はメダルの可能性がなくなった。さらに5-6位決定戦でスペインに76-81で敗れた。優勝はユーゴスラビア、2位アルゼンチン、3位ドイツと、世界の勢力図は大きく変化した。

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アテネ五輪(2004年)
開催地出場成績
アテネ(ギリシャ) 12チーム 3位
監督
ラリー・ブラウン(デトロイト・ピストンズ)
出場選手年齢所属
アレン・アバーソン 29 フィラデルフィア・76ers
ステフォン・マーベリー 27 ニューヨーク・ニックス
ドウェイン・ウェード 22 マイアミ・ヒート
カルロス・ブーザー 23 ユタ・ジャズ
カーメロ・アンソニー 20 デンバー・ナゲッツ
レブロン・ジェームズ 20 クリーブランド・キャバリアーズ
エメカ・オカファー 22 シャーロット・ボブキャッツ
ショーン・マリオン 26 フェニックス・サンズ
アマーレ・スタウダマイアー 22 フェニックス・サンズ
ティム・ダンカン 28 サナントニオ・スパーズ
ラマー・オドム 25 ニューオーリンズ・ホーネッツ
リチャード・ジェファーソン 24 ニュージャージー・ネッツ

 若手選手で挑むも銅メダルに終わる

 アテネ五輪は03-04年のNBA新人王レブロン・ジェームズを筆頭に、平均23・6歳の若い顔ぶれで戦った。大会前にブラウン監督は「(招集したのは)米国のバスケットの将来そのものである」と、若いパワーに期待を寄せたが、NBAのシーズンMVPに輝いたケビン・ガーネット(ティンバーウルブス)や、シャキール・オニール、コービー・ブライアントらは私的な事情や健康問題、安全上の懸念などを理由として代表を辞退するなど、ドリームチームとは言い難いチーム構成となった。

 同代表は大会前の親善試合でドイツとイタリアに敗れるなど、不安な中での五輪に突入した。予選リーグ初戦はプエルトリコと対戦したが73-92の大敗。その後、ギリシア、オーストラリア、アンゴラからは勝利を収めたが、リトアニアには終盤で逆転を許し94-90で敗戦。結局、予選リーグ3勝2敗での決勝トーナメント進出となった。

 決勝トーナメント初戦(準決勝)ではエマニュエル・ジノビリ(スパーズ)を擁し、前評判の高かったアルゼンチンと対戦したが、接戦の末に89-91で敗れて金メダルの可能性はなくなった。3位決定戦では予選リーグで敗れたリトアニアと再戦。米国はゴール下を支配して高い確率でリバウンドを獲得し、104-96で勝利してなんとか銅メダルは獲得した。優勝はアルゼンチン、2位はイタリアだった。

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