甲子園を2度制覇した日大三高・野球部監督に「3年夏のベンチ外」について聞いた。

小倉全由監督、62歳。短くそろえた毛先から、スッと伸びた背すじを通り、ストッキングをスマートに履いたかかとまで、高校野球にかけてきた情熱と自信がみなぎる。近寄りがたさはない。自信はゆとりになり、礼儀正しく、温和だ。

監督をしていく上での苦しさが話題になった。

小倉監督「夏に3年生でベンチ外が出てきます、その子たちになんて言えばいいのか。イヤですね。それが…。今もなんて言えばいいのか。できるなら、毎年の部員数を減らしたいと思うんです。それでも(3年で)外れる子は出てくるんですけどね」

短髪に手をやりながら話す。この苦悩から、できるなら解放されたい、そんな切実さが伝わってきた。

日大三高は三木有造部長の緻密なスカウトにより、遠く沖縄からも選手が集まる。名門ゆえ苦労はなさそうだが、実情は違う。

小倉監督「三木がくまなく回っています。うちは特待制度がありません。みんながうちを選んでくれるわけではありません」


■メンバー漏れした選手に監督「あの顔が忘れられない」

日大三・小倉監督
日大三・小倉監督

集まった素材は能力が高く、小倉監督の情熱で鍛えられる。部の気風が相まって士気も高い。練習試合は、全国強豪校が多く、招待試合も組まれる。

やがて、故障やレベルの高さに戸惑う選手が出てくる。3年間で心も体も変化し、日々の心の有りようにも差がでてくる。

毎年、東京都高野連にメンバー提出するギリギリまで選考を続ける。「うちは最後の最後まで競争させます」。メンバー外を覚悟する者をのぞき、気が抜けない。最後まで競り合う。


7月上旬、寮の食堂に全選手が集まり、小倉監督がメンバーを発表する。20人のメンバーは、ほどなくして室内練習場へ移る。そこで泣いたり、安堵(あんど)したり、仲間を鼓舞したり。思いが交錯する。

小倉監督「自分はそこには行きません。食堂から室内練習場は通路でつながっています。気配でなんとなく分かります」

さらに話してくれそうな雰囲気があった。小倉監督の機微に触れられるかもしれない。めったにない機会だった。

記者「メンバーから外れ、納得がいかずに異議を申し出た選手はいますか?」

小倉監督「それはありません」

記者「納得してない選手、もしくは監督がそう感じた選手はいますか?」

2人の名前を答えた。そして、続けた。

小倉監督「自分は岡安の、あの顔は忘れられません」

    ◇    ◇


■核心の問いかけに岡安はすぐに否定も、うなずきもせず

第100回全国高校野球選手権大会 準決勝を控えナインを集め、声をかける日大三・小倉全由監督(右から3人目)(2018年8月19日撮影)
第100回全国高校野球選手権大会 準決勝を控えナインを集め、声をかける日大三・小倉全由監督(右から3人目)(2018年8月19日撮影)

岡安優太さん(以下敬称略)。2019年3月卒業。18年夏は全国ベスト4に勝ち進んだ。

右の強打者。新宿シニアでは4番右翼として中学3年で全国3位。進学時は関東の強豪校から特待生で勧誘された。記者が聞いた校名は3校。甲子園常連校だった。2011年の日大三高の全国制覇を見て、岡安の気持ちは固まった。志を抱いて飛び込んだ。

18年夏、甲子園出場を決めると、岡安は練習をサポートした。その中で小倉監督は岡安の表情が気になっていた。「納得していない、そういう顔に自分には見えたんです。それは、自分の中にわだかまりがあったから、そう見えたのかもしれません」。

次第にその気持ちは膨らんでいく。ある日、その表情が心に突き刺さる。「『(卒業したら)2度と三高に行くか』、自分の目には岡安の顔が、そう思っているように映って…、それがずっとひっかかっていました」。


日大三高はOBの結束が固い。ほぼ全員が卒業後も近況を連絡し合う。年末の強化練習。午前5時、多摩丘陵は氷点下に近い。夜明け前から屈強な若者が集まる。小倉監督はその1人1人に声をかける。その気風がOBを呼ぶ。現役生がメインだが、OBの近況報告は監督の喜びでもある。

18年夏、小倉監督が岡安の顔を見て「2度と三高に行くか」と感じたことは、いかに気にかけ、そこから心情を推し量ろうとしていたか、小倉監督の苦しい胸の内が見えてくる。

その心情に肉薄するなら、まっすぐに切り込むしかない。「岡安を取材したいです」と申し出た。

小倉監督は「分かりました。私から連絡しておきます」と言った。その時、固定観念に染まった頭に安易な光景が浮かぶ。メンバーから外れたが自分には良かったと。その試練が自分を成長させてくれたと。陳腐な予測が脳裏をかすめた。

後日、小倉監督から約束通りに連絡をいただいた。すぐに岡安に連絡し、取材趣旨を伝え、その日のうちに都内で会った。すぐに会い確かめたかった。小倉監督が「納得していない」と感じていた青年は、小倉監督をどう表現するのか。記者の安易な予測をなぞるのか、それとも。どこまで内面に迫れるか。聞き手の力量が問われた。

取材趣旨を伝え「当時のことをいろいろ聞きます。いいですか?」と切り出す。岡安は「はい」と答えた。「監督さんから電話があった時に、えっ、俺に? と思いました」と笑った。


■監督「ごめんな」に「謝らないでくださいと心の中で」

日大三野球部での3年夏のベンチ外の思い出を話した同校OB岡安優太さん(クラブチーム・東京メッツ所属)(撮影・井上真)
日大三野球部での3年夏のベンチ外の思い出を話した同校OB岡安優太さん(クラブチーム・東京メッツ所属)(撮影・井上真)

岡安は新チーム発足の2年秋にベンチ入り。しかし3年春はベンチ外。夏への大きな危機感が募った。

メンバー発表当日、岡安は淡々としていた。「やっぱり呼ばれなかった、と感じました。涙は出ませんでした。春にベンチから外れた時に、もしかしたら、という思いがあったからかもしれません。もう高校野球はいいや、大学で活躍しよう。そう思っていた時もありました」。

発表後、岡安はトイレに行く。済ませて出る時に、小倉監督が入ってきた。擦れ違いざまに「ごめんな」と言われた。「何か声はかけてくれると思っていました」。岡安はとっさに「大丈夫です」と答えた。その時の心境をさらに聞くと「謝らないで下さい、と心の中で思っていました。そして、それならもっと前から声をかけてほしかった、とも思いました」。


その後、岡安はチームをサポートする。その中で、小倉監督は岡安の顔から「2度と三高に行くか」と感じるようになる。そのまま伝える。黙って聞いていた。すぐに否定しない、かといってうなずきもしない。別の話題をはさんでから、もう1度、何を感じたか聞いた。「(監督は)1人1人を見ていたんだって、思いました」。

思い当たる節があったのだ。

岡安「何度かふてくされた顔をしました」

記者「いつですか?」

岡安「僕はメンバーをサポートしていました。その時に、どうして僕が…、という気持ちが顔に出ていたのだと思います」

苦しむ岡安に、爪痕を残す一撃が飛び出す。甲子園近郊での練習日。紅白戦で岡安の打球が、真夏の空を切り裂いた。

記者「ヒットですか?」

岡安「二塁打です」

記者「どこへ?」

岡安「右中間です」

記者「思ったことは?」

岡安「打ってやったよ、と思いました」

間髪入れずに答える気配から感じた。絶対に忘れるもんか。そんな迫力がビシビシ伝わってきた。岡安にとってなくてはならない1本の、悔しさと自分の存在を示す、何物にも代え難い右中間二塁打だった。

小倉監督は声をかけた。「いいの打ったな」。岡安は「監督さんに声をかけていただいたのは覚えています」と言った。小倉監督は「その時、岡安の顔にちょっと明るさが戻った気がしました。それも、自分がそう思いたかったから、なのかもしれません」。

強打日大三高にあこがれ、勝負するため入部した。無念のメンバー外になり、高校野球に区切りをつけ、大学野球に思いをはせた。


■“悔しさも人生の糧”は幻想 卒業後もはい上がろうと

第100回全国高校野球選手権記念大会・準決勝 金足農対日大三 金足農に敗れた日大三ナインはベンチ前で肩を落とす(2018年8月20日撮影)
第100回全国高校野球選手権記念大会・準決勝 金足農対日大三 金足農に敗れた日大三ナインはベンチ前で肩を落とす(2018年8月20日撮影)

当時を思い出しながら、テーブルを見つめる。首をかしげながら、自分の言葉を探す。3年夏のベンチ外の、あの時の心を思いだそうとした。刻まれた心は、消えない。「思い出すのはいやじゃないです。どういう思いだったのかなって、今は思い出しながら、ああ、そうだったなって感じています」。

岡安「三高で2年半過ごした以上、後戻りはできません。僕は三高以上にきつい練習はないと思っています。だからやり続けて良かったと思っています。やるか、やらないか、その人の気持ち次第です」

そして冬の強化練習に触れた。

岡安「監督さんは『この練習は俺がやらしているかもしれない』と言っていました。僕はやりながら、この苦しい練習をすれば甲子園に行けるわけではないとは思っていました。同時に、やらなければ行けないだろうと。その中で、やり抜けたのは良かったと思います。今も、僕は三高に顔は出しています。施設も使っていいよと、言ってくださいます。後輩はみんないいやつで、かわいいです。それに、仲間がいます」


およそ2時間の取材を終え駅の近くで別れた。岡安は駿河台大硬式野球部を昨年11月末に退部した。1年春からレギュラー。公式戦に出場していたが、監督交代に伴い新しいプレーの場を求め、クラブチームの東京メッツ(東京都リーグ)で練習している。ジャージーの上からでも背中の筋肉の盛り上がりが分かる、野球選手の後ろ姿だ。見送ってから、強烈な思いが込み上げてきた。

小倉監督が感じた「納得していない選手」は、真実として3年夏のベンチ外を懸命に生きたのだ。その心の一端にほんのわずか、近づけた思いだった。

卒業したらどんな悔しさも人生の糧になるという予定調和は、幻想に過ぎない。今も岡安は闘っている。東京メッツでどこまではい上がれるか、バットを振り続けている。それを小倉監督は知っていた。その事実が、何よりもストレートに胸に響いてきた。

    ◇    ◇


■40年前球児で泣けなかった小倉監督の胸に悔恨の思い

第100回全国高校野球選手権大会・準決勝 金足農対日大三 1点差で敗れ涙ながらに引き揚げる日大三ナイン(2018年8月20日撮影)
第100回全国高校野球選手権大会・準決勝 金足農対日大三 1点差で敗れ涙ながらに引き揚げる日大三ナイン(2018年8月20日撮影)

小倉監督「自分が三高で野球をしていた時は、今のような感じじゃなかったんです。『甲子園に行けたら行こうぜ』。そんな感じでした。当然、負けて悔しさはなかった。自分は背番号13でした。サードの控え、サードコーチャーでした」

夏に負け全力で泣く今の生徒を見てこう思う。「ワンワン泣くんです。自分は、あの時、泣けなかった」。40年以上前の夏を思い起こす時、胸を焦がす部活への悔恨の思いだ。「甲子園に行けたら行こうぜ、なんて…。そんなので勝てるわけないですよね。夏は、熱いものがないと勝てないんですから」。

試合に負けると当時の監督の気持ちひとつで、ある練習が課された。ポール間を際限なく走らされる。選手はあきらめの思いから「無限ちゃん」と呼んだ。ある日、東海大相模との練習試合が雨で中止になった。

小倉監督 そしたら、みんなで喜んで。「相模と試合して負けたら、また無限ちゃんだよ。やってられるかよ」って。そんなこと言ってたんですよ。

静かな目だった。しかし、記者は感じた。チームとして、青春をかけ没頭できなかったことへのむなしさを。心の中で、小倉監督は拳を握り締め苦しんでいる気がした。


■競争の宿命…きれいごとじゃない、飲み込めない苦しさ

第100回全国高校野球選手権大会・準決勝 金足農対日大三 グラウンドを後にする日大三・小倉全由監督(左)と日置航(2018年8月20日撮影)
第100回全国高校野球選手権大会・準決勝 金足農対日大三 グラウンドを後にする日大三・小倉全由監督(左)と日置航(2018年8月20日撮影)

小倉監督「よく子どもたちには言うんです。ベンチを外れた選手にしか、外れた気持ちは分からない。試合で受けるプレッシャーは、試合に出た選手にしか分からない。だから、それを自分のものにしないといけないんだ。マイナスにするんじゃなくて、プラスにしないと、って」

ベンチを外れた絶望は、いつかプラスに転じる。巣立った選手が、それぞれの道の中で、目の前の事柄から逃げずに向き合うことを願う。それは自分に言い聞かせるような口調だった。

小倉監督はベンチ外の3年生に、どう声をかければいいのか、迷いながら夏を迎える。「なぐさめでしかないんですよね」。財産にしろ、プラスにしろと、いくら言っても、そこにはいくばくかの無力感が漂う。

グラウンドに集中して、試合に没頭して、チームは勝つ、負ける。その背後で、じっと息を潜め戦いに食い入る影がある。2年3カ月の情熱を込め、チーム内の競争に敗れたものたちの悔しさと、かなしさと、それらを必死に心の奥底に押し込もうとする意地が、にじむ。

それが、部活の宿命だ。そこに競争がある限り、きれいごとではない、飲み込めない苦しさがある。【井上真】