史上2番目に若い19歳で14年ソチ五輪金メダリストとなった羽生結弦は、休みなく次の目標へと向かった。「金メダルが偶然ではなく、実力と思われるように頑張る。プレッシャーは力に変える」。同年8月には、新たなフリープログラムで、4回転ジャンプを初めて3本にすると発表。18年平昌五輪での連覇へ向け、新たな挑戦が始まった。

 数々の困難が待ち受けていた。グランプリ(GP)シリーズ初戦の中国杯で思わぬアクシデントに見舞われた。ショートプログラム(SP)2位で迎えたフリー直前の6分間練習。中国の閻涵(えんかん)と互いにスピードを出した状態で、振り返りざまに激突。しばらく氷上にうずくまり、頭部から流血した。いったんリンクを後にしたが、約15分後に頭に包帯を巻いて演技を強行。ふらふらになりながら滑りきり、2位を死守した。

 精密検査では頭部挫創、左太もも挫傷など計5カ所のケガで全治2~3週間と診断されたが、2週間後のNHK杯の出場を決めた。中国杯での演技続行に否定的な見方が一部にあったが、自分の意志を貫いた。「あれは無謀とコーチ、連盟の方を批判することもあると思いますが、僕の意思を尊重してくれたことに感謝している」と理解を求めた。体調が万全ではない中、NHK杯は4位。6枠目で出場権を獲得したGPファイナルで優勝した。

 体はまだ悲鳴を上げていた。全日本選手権後、腹痛を訴えると「尿膜管遺残症」と判明。急きょ手術を受け、都内の病院に入院した。年越しも、成人式もベッドの上で術後の痛みと闘った。1月には右足首を捻挫。満身創痍(そうい)の中、シーズン最終戦の世界選手権を迎えた。

 会場は激突事故を経験した中国杯と同じ上海のリンク。フリーでのミスが響き2位で連覇は逃したが、最後まで滑り切れたことが誇らしかった。「今シーズンは山あり、谷あり。良かったり悪かったりの繰り返しだったと思うんですけど、スケート人生だけじゃなくて、僕の人生の中で生きてくる」。この苦しいシーズンが、大きな飛躍への力となった。(つづく)【高場泉穂】

◆2014年(平26)

 4月 故郷仙台で凱旋(がいせん)パレード。9万2000人が集まる。

 11月 GP中国杯のフリー直前に閻涵と激突も演技を続行して2位。

 同 GPNHK杯4位

 12月 GPファイナル2連覇

 同 全日本選手権3連覇

 同 「尿膜管遺残症」のため手術

◆2015年(平27)

 3月 世界選手権2位

 4月 国別対抗戦(団体)3位