フィギュアはジャンプの時代に突入する。88年カルガリー五輪を終えると、5種類の3回転ジャンプは、もう伊藤みどり(48)だけの武器ではなくなった。「同じことをしては勝てない。トリプルアクセル(3回転半)をやるしかない」。中学時代に一時封印した、女子初の大技に再挑戦する。

 手本は88年カルガリー五輪後のアイスショーで共演した現在羽生のコーチを務めるブライアン・オーサー(カナダ)ら男子トップ選手。帰国後も映像を繰り返し見て、スピードを出し、高く遠くに飛び出すようなイメージを植え付けた。苦しい練習に、五輪後は引退と、近しい人に話したこともあった。だが、3回転半への衝動が、そんな考えを吹っ飛ばした。

 練習では中学3年時に3回転半を成功させている。難なく自分の武器にすると、88年11月のNHK杯などの国内大会で立て続けに決めた。翌89年3月の世界選手権(フランス)。陣営には3回転半を回避する安全策を勧める声もあった。「失敗してもいいから、3回転半を跳ぶ」。本番では完璧に成功させて優勝。アジア人初の世界選手権制覇を実現した。

 90年には苦手の規定が廃止。「みどりの時代」と話題になったが、本人にとっては決して追い風ではなかった。「当たり前のようにショートから上位にいかなければと思っただけで、すごいプレッシャーだった」。20歳を超え、膝、足首などのケガも増えた。「精神的に追い詰められた。やめたい、やりたくないばかり言っていた」。試行錯誤を乗り越え、92年アルベールビル五輪のシーズンを迎えた。

 「五輪で3回転半を決めて、絶対メダルを取る」。強い覚悟と集中力で、前哨戦はほぼパーフェクトに3回転半を成功させる。絶好調を維持して現地に入ったはずだったが、まさかの異常事態が起こる。2月19日、ショート当日の朝練習。今まで完璧だった3回転半が突然決まらなくなる。「肩に力が入った。ジャンプする時間は1秒もない。微妙なタイミングの違いで失敗する」。重圧から絶不調に陥った。ショートプログラムの3回転半は回避。3回転ルッツへの変更を決断する。安全策のはずが、本番では、その3回転ルッツで転倒。4位と出遅れる。「もう(日本に)帰りたかった」。追い込まれたまま、同21日のフリーに逆転を懸けた。

 冒頭の2連続3回転。最初の3回転ルッツが2回転になる。続く勝負の3回転半も転倒。「どうしよう。メダルを取れなかったら。みんなに期待されている。自分もメダルを取りたいのに」。後のない崖っぷちの中、次の3回転フリップは辛うじて成功。「ここでやっと気持ちがリセットされた」と負の連鎖を止めたことが転機になった。

 演技は後半に入る。3分すぎの5番目の3回転は、前半に失敗した3回転ルッツか3回転半か、2つの選択肢があった。「悔いは残したくない。チャンスがあるなら挑戦しよう」。瞬時の判断で3回転半に挑む。高さも回転も十分。着氷も完璧に決めて五輪史上初の快挙を達成。その後も力強い演技で会場を沸かす。演技後は満面の笑みで観衆に手を振った。銀メダル。日本勢初の五輪メダルとなった。

 「世界中の人が(3回転半の成功に)びっくりしたと思うけど、自分が一番びっくりした」。1度失敗しながらも、不屈の闘志で再挑戦。「3回転半に挑戦して滑りきったことで満足感でいっぱいだった」。2カ月後に引退を決意した。

 天才はリンクを去った。日本スケート連盟は伊藤1人に重圧を背負わせ、苦しめたことを反省。アルベールビル五輪の半年後、全国の有望な小学生を集めた合宿を始める。それが今のような隆盛期の原点になる。

(敬称略=つづく)

【取材・構成=田口潤、高場泉穂】