アジアで初めて東京で五輪が行われてから50年がたった。開会式が行われた10月10日前後には、都内で多くのイベントが行われた。64年大会の金メダル数は16個、前回の60年ローマ大会の4個から急増した。国をあげての強化の成果。国民の期待が大きかったのも、選手たちのモチベーションを高めた。金メダル数=国力、そんな「神話」が信じられていた時代だった。

 その後、金メダル数は減っていく。続く68年メキシコシティ大会は11個、72年ミュンヘン大会は13個と健闘したが、76年モントリオール大会は1ケタの9個。不参加だった80年モスクワ大会をはさみ、84年ロサンゼルス大会は10個と再び2ケタに乗ったが、これはソ連や東ドイツなど東欧諸国が欠場した影響。88年ソウル大会で4個に終わると、以後は3個、3個、5個と低迷していった。

 流れが変わったのは04年アテネ大会。金メダル16個と64年東京大会に並ぶ好成績を残した。続く08年アテネ大会でも9個、07年ロンドンは金メダルこそ7個だったが、メダル総数では38個と過去最多を記録した。日本の競技力は、確実に上向いてきている。

 2000年代に入って、トップ選手の環境が飛躍的に改善されたことが、好成績にもつながった。01年には都内に国立スポーツ科学センター(JISS)が開所。国が競技力向上に本格的に乗り出した。競泳平泳ぎの北島康介が2冠に輝いたのも「JISSのおかげ」だった。その後、ナショナルトレーニングセンターも開所。国家によるサポートは手厚くなった。

 周囲の環境が変われば、選手の意識も変わる。90年代は「自分のために」出場し、「五輪を楽しむ」選手も多かった。しかし、周囲のサポートを受け、期待もされれば「自分のため」とも言っていられない。04年アテネ大会、敗退した卓球の福原愛は「楽しめましたか?」と質問され「楽しみにきたわけじゃないんで、私は」と答えた。

 確かに環境改善は競技力を向上させた。しかし、本当に力になったのは改善されたことによる選手の意識変化だったのではないか。勝つか負けるか、最終的には選手の精神力に委ねられる。「これだけサポートしてもらったのだから勝たないと」と思うか「楽しめればいいや」と思うかで、成績は変わってくる。

 長嶋茂雄氏は04年アテネ大会の野球日本代表監督に就任したと同時に、JOCのアドバイザーにもなっている。各競技を回り、選手を激励した。JOCにとっては、同氏の人気をマイナーなスポーツ界の活性化に利用したい思惑もあっただろうが、予想以上に選手への影響力も大きかった。行く先々で「勝たなければダメ。勝つことが大切と言いました」とミスター。その言葉に、影響を受けた選手もいたに違いない。

 長嶋氏はプロ野球だけでなく、五輪にも大きな足跡を残していた。04年大会からのメダル数アップに一役買った。またアマチュアスポーツの振興にも尽力し、今でも「日本トライアスロンの父」と呼ばれる。五輪の世界においても、長嶋茂雄はスーパースターだ。

 東京五輪50周年企画第2弾「長嶋茂雄とオリンピック」の後編は15日付紙面に掲載する。