ピョンチャン・オリンピックの選手たちは素晴らしかった。競技自体もさることながら、その発言や競技に取り組む姿勢が各メディアによって流れ、本当にアスリートたちの地位をあげてくれたと思う。実際に自分の人生の同時期と比べても、メディアの対応が素晴らしい選手が増えたと思う。

 同時に老婆心ながら心配することがある。今の選手は素晴らしいのだが、実際以上にイメージが膨らんだまま2020年に向けて加速していき、まるで聖人君子のような品行方正さを求められるようにならないかということだ。

閉会式に入場する日本選手団(撮影・山崎安昭)
閉会式に入場する日本選手団(撮影・山崎安昭)

 トップアスリートの世界は、勝ち負けがはっきりした勝利が全ての世界に生きている。相手に合わせるような普通のいい子ではとても戦えない。ある意味でアーティストのような一面がある。目的に向かって一直線に向かい、それ以外のところが年齢以上に幼いということもよくある。

 もちろん普通の若者のような一面もあって、それはそれでほほ笑ましい。シンプルに言えばどんなにハイパフォーマンスをしても中身は一人の若者だということだ。

 日本におけるアスリートは、競技とともに人格が向上した教育者のような役割を求められることがある。だが実際には、若い間はやんちゃでも長い間の競技人生で人格が磨かれるというのが実際のところだろう。

 私の人生を振り返っても、10代の頃は金髪にピアスで試合に出て、陸連関係者を大いに悩ませた。なんとなく反抗心でそんなスタイルを続けていたのだが、ある時から飽きてしまい、頭を丸坊主にして格好を気にしなくなっていった。あの時期に大目に見てくれた大人がいたからこそ、今がある。

 これから2020年に向けて、冬季オリンピックの選手も、そして東京オリンピックの候補選手にも注目が集まるのは間違いない。私が懸念しているのは、10代の発達途中の選手たちが、ある一時期の若者特有のやんちゃで、未来が絶たれてしまわないかということだ。特にSNSが発達し、スマートフォンが普及した今は、1億総ジャーナリストになりうる。注目されるということ=あら探しをされるということだ。

 アスリートだから何もかも許してほしいという話ではない。ただ、あくまで一人の若者だという前提で考えて欲しいのだ。同世代の若者であれば若気の至りで許されることが、全部を暴かれて地に落とされるということが、アスリートの場合にある。しかもインターネットによってそれらが記録に残っていくのだから。

 今の時代に私のような選手はいないかもしれないが、もしいたとしても一定の範囲で大目に見るという寛容な姿勢でいたい。褒められた若者ではなかった私が保証するが、若いときにやんちゃをしても次第に人間がこなれることはよくある。そして、人生トータルで社会にプラスな効果をもたらしてくれれば、それでいいのではないだろうか。(為末大)