■2年前にテキサスで見せた快走

 「みたか?」

 午前8時、携帯電話に知人から短いメールが入っていることに気づいた。受信は午前5時すぎ。「出たのか」。どきん、と心臓が音を立てて、体がしびれるような感覚に襲われた。慌てて携帯電話でニュースをチェックすると、再び、どきん、と心臓が音を立てた。

 「9秒87」。

 15年3月28日、米テキサス州オースティン。陸上男子100メートルの桐生祥秀がシーズン初戦として「テキサス・リレー」を走っていた。時差の関係で、新聞の締め切りには間に合わない早朝だった。走ることは把握していたが、試運転の意味合いが強いレースだった。「10秒1台後半が出れば、今年はかなり期待できるだろう」と甘く考えていた。9秒9台を飛び越えて9秒87。ぶっ飛んだ。

 レースは記録が公認される追い風2メートルを超える同3・3メートルだった。桐生の9秒87は参考記録となったが、物理的にアジア人で100メートルを9秒87で通過したのは桐生だけだ。さらにいえば、追い風は強ければいい、というものではない。風に背中を押されると、体が進む速度と足が回転する速度がずれて、転倒する選手もいる。五輪出場経験がある元選手でも「追い風3メートル以上で走ると、足がついていかなくて怖い」という。短距離には、ゴムを腰につけて前から引っ張ってもらい、自分が出せる以上のスピードを体に覚え込ませる練習もあるぐらいだ。

 9秒87は追い風だからといって出せるタイムではない。日本記録の10秒00を持つ伊東浩司氏は当時「強い追い風は、走りにくい。私の記録は今日の時点で抜かれたと思っている」と話したほどだった。

■オーストラリアでの今季初戦へ

 桐生の特徴は、中盤の加速力とピッチの速さ。9秒87で100メートルを駆け抜けたレース後に「9秒台を体感できてよかった」とケロリと話している。バランスを崩すことなく、足の動きが9秒87のスピードに対応していた。「日本人初の9秒台」という言葉で多くの人がイメージするのは9秒99だろう。9秒92のような9秒9台前半、ましてや9秒87をイメージする人はほとんどいないはずだ。だが桐生は、そのスピードを体に刻んでいる。

 桐生は今月22日、約1カ月のオーストラリア合宿に出発した。今季初レースとして3月11、12日のサマー・オブ・アスレティクスGP(オーストラリア・キャンベラ)に出場を予定。2年前の衝撃を考えれば「ジェット桐生」がどんなタイムを出しても、おかしくはない。【益田一弘】

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。プロレス、相撲、ボクシング、サッカー、野球、冬季五輪、陸上、水泳などを担当。紙面企画でボクシング現役世界王者とスパーリングして3度ダウンした経験がある。