呼び名は「沙織ちゃん」。バレーボール女子V・プレミアリーグ東レのリベロ木村美里(25)は、5歳年上の姉にそう声をかける。

 姉は東京・成徳学園(現下北沢成徳)高時代から日本代表で戦ってきた木村沙織(30)。17年3月5日。美里はバレー人生に終止符を打った姉と、同じ東レのユニホームでボールを追った。

 沙織からは「みっちゃん」と呼ばれる。ケンカはしない。「『私の沙織ちゃん』っていうのは今でも結構ありますね。独占欲というか…。沙織ちゃんみたいになりたくて、全部まねしています。お肌のケアも、洗剤の匂いも…。沙織ちゃんは元々、美意識がむちゃくちゃ高くて、私はがさつ。そういうのを全部教え込まれました」。日本代表の遠征続きだった姉がチームに戻ると「みっちゃん、眉毛もうちょっと生やしな~」などと、いつも駄目出しされる役柄だ。

PFU対東レ戦でボールを追いかけ倒れ込む木村沙織(手前)と木村美里(写真は2016年10月30日)
PFU対東レ戦でボールを追いかけ倒れ込む木村沙織(手前)と木村美里(写真は2016年10月30日)

 リオデジャネイロ五輪イヤーとなった16年の正月には、拠点の滋賀から2人で京都・八坂神社へ初詣に向かった。「沙織ちゃんは背が高くて目立つから、周りに騒がれるんですよ。『あれ、木村沙織じゃね?』って…」。沙織の家で手巻きずしを一緒に作ったり、練習場近くのショッピングモールへ買い物にも出かける。そんな仲良し姉妹だが、バレーボールにおいては遠い存在だったという。

 「中学から遠征とかばっかりで。家にいなくて当然の存在でした(笑い)。応援に行ったら会える…みたいな。すごく遠い存在でした」

 私が美里にじっくりと話を聞いたのは、16年7月5日だった。リオ五輪開幕のちょうど1カ月前に、滋賀・大津市の「東レアリーナ」へ足を運んだ。「お待たせしました~」と応接室にお茶を持って現れた美里。人見知りする様子はなく、ハキハキと、元気満々。常に笑っている。ふと思った疑問は、早々にぶつけた。「お姉ちゃんに嫉妬とかしたことなかったんですか?」。

 美里は「嫉妬したことはないですよ。私はリベロで、沙織ちゃんのように打たないので」と答えた。中学は沙織が育った成徳学園中(03年に募集停止)の強化の流れをくむ東京・北沢中でプレー。下北沢成徳高に進み、東レに入団と、常に姉の背中を追った。「でも、ここ(東レ)に来て、初めてちゃんと一緒にバレーした感じです」。姉はいつしか日本代表主将の肩書を背負った。美里は「沙織ちゃんはそれまであまりキャプテン、副キャプテンとかやってこなかった。うま~く避けていた。だから最初『大丈夫かな?』と思いましたよ」と思い返した。

 沙織のすごみを感じるのはコートだった。美里がリベロとして、本格的に台頭した15~16年シーズン。相手は自分を意図的に狙ってきた。動揺し、パニックになると、いつも声がかかるのだ。「沙織が(守備範囲の)半分行くからいいよ! そっちを頑張って!」「位置取りは悪くない。そこから思い切って追いかけな!」「みっちゃん、後ろだけで大丈夫!」…。姉は妹の心配を吹き飛ばすほど、たくましかった。

 もちろん、2人の時間では弱音も聞いた。15年のW杯ではエースながら、代表でベンチを温める時間が急増。滋賀に戻ってきた姉は「私は代表にいらないってことだと思う」とつぶやいた。美里は「うんうん」とうなずいて聞くだけだった。「沙織ちゃんはすごく強い人なので。『全日本とかどうでもいい』って言っていたけれど、私の本心は何も心配していなかったですよ(笑い)。『すごい』って言葉でしか表せない、強い人なので」。

ポイントを決め喜び合う木村沙織(左)と木村美里(写真は2016年10月30日)
ポイントを決め喜び合う木村沙織(左)と木村美里(写真は2016年10月30日)

 身長185センチの沙織と、161センチの美里。24センチの身長差があったからこそ、美里は姉と一緒にプレーができたとも思っている。母には昔「本当は170センチ同士になるところを、神様が『沙織ちゃんがあそこまで行くには背がないとダメだ』って、美里の身長を与えたのかもね」と言われた。美里はネタにして笑う。「お母さんは気にしていたのかな…。小さいと、かわいがられるからいいのに。背が同じで、同じポジションだったら、比べられてしんどかったかもしれないので」。

 美里は今季のリーグ戦で、27試合、100セットの全てに出場した。木村沙織引退のニュースを関西で見て、私が自然と思い出したのは、あの日のインタビューだった。泥臭く、ひたむきで、元気が取りえの「みっちゃん」。そのキャラクターが新しい東レ名物になることを、心の底から楽しみにしている。

 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。兵庫・武庫荘総合高、大体大とラグビーに熱中。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当となり、15年11月から西日本の五輪競技を担当。