宮里藍の引退会見を取材した。「モチベーションを維持できなかったのが原因です」。宮里は、そうなるまでの過程も分かりやすく説明した。「ゴルファーの前に人格者でありたい」。信念の通り、誠実な人柄があふれる会見だった。

 初めて宮里を取材したのは、03年3月のダイキンオーキッドだった。もう、14年も前なのかと思う。私は宮里3兄妹を取材しながら、ご両親の人柄、考え方にひかれた。父で3人を指導してきたティーチングプロの優さんは「学校一番 ゴルフ二番」と言っていた。ゴルフがうまいだけではダメ。知識、教養、礼節を備えてこそ、立派な人間、ゴルファーになれるという考えからだ。

 優さんは、29歳でゴルフを始めた。当時のことを聞くと、笑顔で答えた。「妻に連れられ、練習場に行ったのをきっかけに始めました。最初は空振り。当たっても200ヤードのドスライスでした。でも、野球よりボールは飛ぶ。体にそう快感が残りました。それから寝食を忘れてゴルフに打ち込みました」。

 長男の聖志、次男の優作には、物心つく前からクラブを握らせた。「家族でゴルフを楽しみたい」。その一心だった。「子どもをプロに」とは考えていなかった。藍については「女の子だし、好きなピアノの先生になればいいと思っていました」。だが、藍は父の指導を受ける兄2人がうらやましく、「藍もゴルフやる」と言ってきた。

 家計は苦しかった。優さんは41歳で沖縄県東村の村長選に出馬し、落選した。村職員の仕事を失い、1年以上の就活を経てティーチィングプロとして働き始めた。だが、当時の月収は15万円程度。それでも、工夫してゴルフを続けた。土日には赤土の村営グラウンドでアイアンを、スタンドから砂浜に向かってドライバーを打たせた。クラブは1本1000円の安物でシャフトを短くして、子ども用にした。ボールは紛失しないようにスプレーで赤く塗った。練習場のグリーンは無料で、1日中アプローチやパットをしていたこともある。

 優さんの指導方針は「褒めて伸ばす」。スパルタ指導ではなく、少しでもできたことを褒めて、次の課題を与える。練習を強要することはなく、藍が「今日はテレビでドラマが見たい」と言えば、「分かった。じゃあ、その前に急いで100球打ってみようかね」と返していた。一方で、マナー違反には厳しかった。パットが外れて舌打ちすると、「もう、ゴルフをやめろ」と激怒した。他のジュニアゴルファーも指導し、勤務先の大北練習場(名護市)で深夜までレッスン。引きこもりになった高校生にゴルフの楽しさを教え、立ち直らせたこともある。

 私は、宮里家の地元、東村を何度も訪ねた。白い砂浜、青い空と海。静かで波の音しか聞こえない時間帯もある。村営グラウンド、スタンドを眺め、3兄妹の幼い頃を思い描いた。

 豊子さんは、そんな環境で育った子どもたちを優しく包んでいた。出場試合を見ることが好きで、微妙な距離のパットが決まると、「ああ、良かった」と胸をなで下ろした。ミスショットが木に当たってフェアウエーに出ると「キジムナー(木の精霊)が付いているんですかね」と笑った。

 藍が引退決意を伝えた時、両親はすぐに受け入れたという。優さんは「あっ、そう。よっしゃ。よく頑張った」と声を掛けた。「始まりがあれば終わりもある。いつやめてもいいと思っていましたから」。モチベーションの低下に苦しんでいたことについて、相談はなくとも感じていた。

 藍の会見はそろって会場で見守り、優さんは「落ち着いて冷静に対応していましたね」と褒めた。私はそこでもう1度、子どもたちに「ゴルファーの前に人格者であれ」と言い続けた意図を聞くと、こう返した。「ゴルファーだから偉いのではありません。1人1人に人格者として接することこそ大事なのです。ゴルフは、人格を高める道具に過ぎませんから」。

 この親にして、この子あり。私は記者の前に人として、宮里の両親、3兄妹に出会えたことを幸せに思う。

【元ゴルフ担当、現静岡支局長 柳田通斉】